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『北方ジャーナル』2018年4月号に掲載されたエッセイの7回目です。



第8回

治療は続くよいつまでも

 2017年8月末。「乳房部分切除術」を受けて入院していた妻が退院した。腫瘍を取り除かれた妻は手術翌日からすっきりした顔をしており、それはまさに憑き物が落ちたようでもあった。しかしそれはたぶん鎮静剤の類のおかげで、術後数日してからは苦虫を噛み潰したような顔をよくするようになった。手術の影響で胸に刺すような痛みが時折襲うのだという。


 おっぱいをまるごと切除する「乳房切除術」ではなく、腫瘍もごく小さい1㎝程度だったとはいえ、腫瘍周囲の正常な組織ごと取り除くので、胸に直径5㎝ほどの穴が空いたことになる。思えば“部分切除”といったって、乳房の大部分を切除してわずかに乳房が残った場合であっても“部分切除”である。言葉の印象とは実に怖いものだ。ともかく、胸にぽっかりと穴の空いた妻は手術からおよそ半月弱を「アイタタタタタ」とぼやきながら、腕を上げるリハビリをして過ごすことになる。胸の筋肉組織を削ったので突っ張りが生じてしまい、痛みを堪えながらでもリハビリをしないと腕が上がらなくなってしまうのだ。


 退院までの間に切除した腫瘍の検査も済み、今後の治療方針が病院から説明された。乳がんには比較的おとなしいものから増殖が活発なものまでいくつかの種類があり、再発のリスクや治療方法が変わってくる。薬物療法ではがん細胞が持つタンパク質を調べてその特徴によって5つの「サブタイプ」というものに分類される。そのサブタイプや病気の進行(ステージ)によってホルモン療法しかしなかったり、ホルモン療法と化学療法(抗がん剤)を併用したり、化学療法しかしなかったりと標準的な治療方法がガイドラインで示されている。このサブタイプは腫瘍の発見時と手術の前、術後と時間の経過で稀に変化することがあるので、術後に変化がなかったことを確認してから担当医の説明があった。


 妻のサブタイプは「ルミナルA」。ごく簡単にいうと、増殖力が低くてホルモン療法も効きやすい5つのタイプで最も予後の良さそうなサブタイプだった。担当医であるさっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックの亀田博院長は、万一のことがあるのではっきりと「よかったね」とは言わなかったものの、乳がんの中でも安心していい部類であることがその表情から読み取れた。次いでこれからの治療方針についても説明があった。術後ほどなくして他の医療機関で放射線治療を受けること、そして5年間のホルモン剤の服用などについてだった。


 妻の手術に際して「センチネルリンパ節生検」が行なわれたとき、亀田院長はセンチネルとは斥候(見張り番)のことだよ、と教えてくれた。まずこのセンチネルリンパ節ががん細胞の襲撃を受けるので、ここにがん細胞の襲撃の痕跡つまり転移がなければ他のリンパ節にも転移がないと考えることができるということだった。同じような考え方で、妻の乳がんの発見や治療の流れをテロリストとの戦いに置き換えて考えるとこうなる。


 定期的な取り締まり(がん検診)ではなく、噂話(自己検診)でテロ組織(がん細胞)が活動しているのがわかった。聴き込み(エコー検査やマンモグラフィーなど)や潜入捜査(生検)によるとどうやらまだ組織は立ち上がったばかりらしい(ステージⅠ)。早いうちに悪の芽を摘み取ろうとテロ組織の本部にミサイルを投下(乳房部分切除術)、近隣住民に若干の被害が出たがそれはまあ仕方ない(手術の副作用)。念のため支部になりそうなところも特殊部隊を投入して建物を破壊(センチネルリンパ節生検)。しかし、そこにはテロ組織の痕跡すらなかったから今後しばらくはテロに苦しむことはないだろう。しかし本部を叩いたからといって本当にすべてのテロリストを殲滅できたかどうかは疑わしい。よし、この街全体を空爆しよう(放射線治療)。この空爆は街全体を焼け野原にするほどの威力はないけれど、本部の破壊から逃れたテロリストを仕留めることはできるだろう。でも、やはりまだ不安だ。テロの思想を広めないために少なくとも5年間は情報統制(ホルモン療法)を敷こう。これで完璧な平和が訪れるはずだーー。


 なんともしょうもない例えだが、イメージとしてはわりと間違っていない例えでもあると思う。がん治療とはこんな調子で徹底的に敵を殲滅するように戦略立てて行なわれる治療だ。近隣住民である正常組織の多少の犠牲にかまっていられないし、社会全体が息苦しくなっても国家が崩壊するよりはマシ、つまりは多少具合が悪くても死ぬよりはマシということで結構な期間の我慢を強いられる治療なのである。


 妻は8月末に退院し、放射線治療を受けるのには通院は不便で体力的にもツライので北海道大学病院に9月下旬から10月末まで入院して放射線治療を受けることになった。入院期間中に計20回の放射線の照射を受け、乳房組織内に残っているかもしれない微小ながん細胞を根絶やしにする治療だが、この治療によって妻の胸の片方はまるで日焼けしたようになり、表面の皮膚が一部荒れていた。ごく初期の乳がん患者でさえこの様子なら「がんと闘わない」と治療を受けないがん患者がいるのもうなずける気がした。


 放射線治療が終って退院してからはいよいよ本格的にホルモン療法の開始である。ホルモン療法といっても薬を飲んで数カ月に一度注射を受けるだけなのだが、その“だけ”というのが実にクセモノだ。妻が5年間毎日飲み続けなければならないのは、乳がんのホルモン療法ではごく一般的な治療薬である抗エストロゲン剤。


 これは乳がんの増殖を促すエストロゲンが乳がん細胞に近づかないようにする薬で、再発するリスクが半分近くに減る有効な治療薬だが、その副作用が妻にとってはかなりの負担だ。急なほてりや発汗などいわゆる更年期障害に似た副作用が出るのだが、それがいつでも出てるわけじゃなく昨日はほとんど症状が出なくて調子よかったけれども今日はかなりツライなどと、症状の出方が実に不安定。これじゃあまともに働けないんじゃないかと今でも不安になっている。


 もう一つの治療が卵巣機能を抑制する皮下注射だ。これは最初は1カ月毎で、慣れてくれば3カ月毎、6カ月毎に打てるようになる注射で2年間続けなくてはならない。乳がん細胞の増殖に必要なエストロゲンは閉経前、卵巣で作られるが、その卵巣の機能を抑制してエストロゲンそのものがあまり作られないように打たれるのがこの注射だ。その副作用は頭痛や肩こり、不眠、うつ症状などがある。あとこれは副作用とはいえないが卵巣機能を抑制するので生理が止まる。当然のことながらホルモン療法を受けている間は妊娠することができない。


 乳がんは30〜40代の発症が増えているし、出産の高齢化が進んでいるのでこれは厄介な問題だなぁと思っていたら我が家でもこれは他人事ではなかったようで「弟や妹が作れなくなっちゃった、ごめんね」と末娘に語り泣いて抱き合う母娘の姿が…。どうやら妻は本気で5人目の子が欲しかったらしい。


 いやいやいや、お気持ちはわかりますけど甲斐性なしの僕には4人の子の教育費だけでも絶望的でして、これ以上は本当に責任持てません。いや、その前にこのホルモン療法というのが結構財布に痛いものでして、高額医療制度を利用しても年間10万円以上の出費になるし、僕らが加入しているがん保険も適用されません。妻はもう新たにがん保険に入れませんが、これから保険加入を検討している方は本当によく検討したほうがいいです。がんが見つかったらまずまともに働けません。そして手術以外にも長い期間治療が続いてお金がかかります。僕のように妻の収入にも寄りかかっている旦那さんは特に奥様の保険、見直したほうがいいですよ、ホント。

(『北方ジャーナル2018年4月号』掲載)

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