直感って本当に色々な種類があって、今日はなんとなく、自己防衛としての直感の話をしたいと思います。多少、話として固いかも知れないです。

 

僕が「直感」という言葉で一番最初に思い浮かぶシーンが、タイトルは忘れてしまったのですが、何かのビジネス書で、アメリカの災害時の消防士の話が出てくるのです。

 

その災害の具体名を出すと悲しみが蘇る方々が多いと思うので伏せたいのですが、ある日、市民から要請があって、その消防隊のリーダーは災害にあったビルに直行したそうなのです。ビルの中に入って消火活動をしていたのですが、ふと背中に伝わる冷や汗が、いつもの何倍もあった。

 

「何か、このビルの消火現場は、いつも自分が向き合ってきた災害としてのレベルが違う」

 

と直感し、それで、いそいで部下に退避命令を出したそうなのです。普通、救助を職務としている人が退避命令を出すって、並大抵のことじゃないですよね。命令違反とかそういうレベルの話じゃなくて、「助けられる人を助けられなかった」っていうのは、ご本人たちにとってもトラウマとして残る経験にもなり得る。それを職務としてやっている人が、その災害現場を放棄して退避するって、その命令を出すのって並大抵のことじゃない。それでも、退避命令を出したそうなのです。それから何分か後に、ビルは崩落した。

 

いきなり激しいレベルの話が出てきてしまって恐縮なのですが、この消防士さんが「直感」という言葉で扱ったレベルのものって

 

「今まで数多くの危険な現場に立ち、その経験を持ってしても、どのレベルにも当てはまらない、つまり、段取りとか仕組みすらも想像ができないことが目の前に起こっている」

 

という、そういう「理解や経験の範疇を超えたもの」に対処しようとしてしまう危険性を感じたのだと思うのです。

 

なので、この場合の直感って「自己防衛」の手段して使われている感覚なのです。

 

ちょっと話が変わるのですが、僕自身がプライベートで使っている「直感」って、この話のように、「自己防衛」で使っていることがほとんどです。「なんとなくこの道は曲がりたくない」とか。「なんとなくこのマンションのエントランスには長居をしたくない」とかですね。

 

僕自身の直感の発動する場所は

 

「ある人などに会った後に、ひとりで電車に乗った時」

 

です。そこで、「あー、疲れたー」と言ってみた時に、何かが残るモヤモヤ感なのか、それとも「あー、疲れたー」と言った後に「またでも会いたいなー」という、そういうほのかな楽しみが残るものなのか。誰かと会った後に「あー、疲れたー」とひとりで言ってみて、その後に続く感覚ってけっこう生物として大事な感覚ですよ。

 

他にも、「直感で選ぶ」って、たとえば街をぶらぶら散歩していた時に、たまたま入った洋服屋さんで、たまたまめちゃくちゃ「家に持って帰りたい」と思ったTシャツがあったとか、そういうのは「かわいい直感」だから、そういう直感の使い方って、その人の生活をほのかに豊かにします。

 

結論としては、僕は毎日の生活の中で扱う「直感」って、そういうかわいいTシャツを選ぶみたいな、そういう「ほのかな幸せ」ぐらいの直感で良いんじゃないかと思っているのです。これもまた今度話をしたいのですが、村上春樹さんの小説って、よく主人公がめちゃくちゃな危険な状況に叩き込まれるのです。その時に大事にする感覚が、まずアイロンがけをすること、冷蔵庫の中からありものの野菜を使って、サンドウィッチを作ることであったりします。危険とか非日常を前にして、そういう「ほのかな幸せを感じ取れることができる感覚」って、自分の生存率を高めてくれる話は今度したいです。

 

直感ってなんだろう、「すごく家に持ち帰りたい洋服を見つけた」とか、そういうかわいい直感以外の直感が発動されている条件って、やっぱり生物として「生命の危機のような、なんらかの異常状態が目の前に現れている」という感じがして、直感って、全部が全部「善」ってわけじゃないと僕は思っています。やっぱりそこで、なんらかの興奮状態とか高揚状態が入っている状態でビンビンに感じまくる「直感」って、それは何かもうすでに異常事態に巻き込まれている可能性もあるわけだから。

 

前述の消防士の方とか、後は、武道的な経験が多い人、それこそビジネスの現場とかでも「すごい危機があった」とか、そういう経験値があった上での直感って、すごく面白い。

 

でも、そういう立場にいる人がどの程度、どの頻度、どういう状況で「直感」を使っているのかって、個人的に興味があります。

 

直感という感覚は、面白いからこそ、危険でもあるっていうのが、僕の動物的な感覚です。