小さい頃、私は創作が好きだった。大人の言葉で言えば、創作家になりたかった。誰も考えたことのない面白いことを思いついてそれを実現するのが好きだった。だから私は小学校の学科で言えば、図画工作と理科が好きだった。

大人の言葉で言えば、著作権で保護される絵画や音楽などの芸術、工業所有権法(特許)で保護される科学技術上の発明。そのうちのどちらでもよかった。


逆に私は細かい事務処理が苦手で、若い頃はそんなつまらないことは他人に任せておけばよいと思っていた。


それより創作だ。


誰も私と同じ絵を描くことは出来ない。

特許にしても、せっかく何かを自力で考案し、発明をしたとしても、前例があればそれは公知の事実であり、モノマネするのと何ら変わらない。その場合、その発明のアイデアでは特許を取ることが出来ない。発明のアイデアは公知の事実であってはならないのだ。

世界で誰よりも早くそのアイデアを思いつき、過去の前例を調べ、新規性、進歩性、有用性を確認した上で、現実的な実施形態にして、初めて発明が成立し、その核心をクレームする特許書類に書き起こして、特許庁に届け出なければならない。


若い頃、私はそのふたつの道のどちらを選ぶかについてずっと悩んでいたが、結論として私は父と同じ理系の道を選んだ。

大学は数学科に入学し、大学卒業後は外資系のIT系企業に就職した。


逆に芸術の道を選ばなかったのは、今になって振り返って考えると、当時は終身雇用が当たり前のバブル期だったとは言え、その道で生涯食べていけるか、自分の才能に不安があったからだ。若い頃の私には妙な使命感があり、何が何でも自分の夢を成し遂げなければならないと思い込んでいた。しかし、そのために私のような凡人が1, 2度の挑戦で物事が全てうまくいくとは到底思えなかった。それを実現するためには何度でもやり直せる生活の基盤が必要だった。それも全て自分が賄わなければならない。


こう言うと芸術系の方たちに怒られるかもしれないが、私は芸術で食べていけるのは本当にごく一握りの人だけで、それ以外は連日遅くまでアルバイトに追われたりしてなかなか思ったような活動ができないのではないかと心のどこかで思い込んでいた。


しかし、その私の人生に一つの大きな狂いが生じた。それまで意識にもなかった母親が在日韓国人二世だという事実だった。

私は母が日本人ではなかったことを人生の途中で知り、それまでまるで興味のなかった差別問題、政治問題、社会問題、歴史問題を扱ういわゆる文系の世界に興味を持ち始めた。それは数学のように正解を理論だけで立証できる世界ではなかった。


ある意味では、私はウィトゲンシュタインと同じ道を辿ってしまったのかもしれない。彼も元々は工学系でプロペラの改良をする特許を取ったりしていた。しかしいつの間にかフレーゲやバートランド・ラッセルなどの影響から哲学の方面に進んでいった。そこには彼だけしか知らない何らかの気づきとブレークスルーがあったに違いない。


それで私はいつの間にか理系か芸術かではなく理系か文系かのどちらの道に進むかについて考えるようになっていった。

芸術も好きだが、自分に才能を見出せず、せいぜい鑑賞など趣味で楽しむのがやっとではないかと言う気がしていた。


私の両親は子どもたちにやさしく、大学進学費用をこつこつと貯金してくれていたが、高等教育や学歴や一流企業への就職などについては理解がなかった。

私の両親は終戦の前年に生まれて、ともに終戦直後の焼け野原の中、母子家庭で育ったので、満足な教育が受けられなかった。

私の母は商業高校を卒業して数字の計算は出来たし、割と達筆だったが、私が母自身から直接教わったのは小学校低学年のときに九九を教わった程度だった。

それでも高卒の母は近所の小中卒の近所のおばさんとパート先で一緒になると、漢字の書き方や掛け算以上の計算方法などを教えていた。おそらくはそうしなければ、母自身がその人たちと協業しにくかったのだろう。

私の父は工業高校を卒業して重工業企業の下請けの下請けで設計・製図の仕事をしていたので、幾何学(製図の仕方)と数学的な計算方法をある程度学んだ。


そんな両親のもと、私は自由に自分の人生のプランを立て、実行に移すことができた。


うちが貧しく塾に行ったことがない私は、新学期になると配布されるその年の教科書とドリルだけを使い、自宅で独学をし始めた。

それではうまくいかないだろうと思った私は子供なりにある程度の学習計画を立てた。


具体的には

1. 勉強する科目を数学一本に絞ること(その他の学科の勉強時間は全て数学の勉強時間に回すこと、数学以外の授業中にも数学の問題を解くか、頭の中で数学の問題について考えること)

2. 私は私の教師であり、私が私に教えること

3. 私は私の生徒であり、私が分からないことは私に質問し、私に答えてもらうこと

4. 数学において解き方などを丸暗記しないこと

5. 教科書とドリルの問題が全て解けたら、逆算を利用して自分で自分の問題集を考えて紙に書き出して作ること

6. 大学受験では(全科目の総合点が全く足りないので)超一流大学は最初から狙わないこと

7. 首都圏特に東京の大学しか受験しないこと(大学進学を首都圏での生活基盤を築くための手段とすること)

8. 多少の学歴差はどうでもよいこと

9. 受験先は最小限に絞ること(宿泊費と受験料にお金がかかるため)

10. 受験校は私立大学のみ(数学しか出来ないため)

というものだった。


いかにも小学五、六年生が考えつきそうな子供の学習計画だった。


私は学問についての教育は受けたが、受験についての教育は受けていなかったため、実際は大学受験で何をすればいいのかよく分からなかった。

当初は偏差値がなんなのかよく知らなかったし、高校三年生まで赤本というものの存在を知らず、傾向と対策というものは最後までやったことがなかった。

他の受験生が何のためにどうやって受験勉強をしているのかよく分からなかった。どうやら夜の塾が彼らの大学受験に関する情報交換の場になっているらしかった。


のちに私が早慶を受験しておきながら滑り止めとして上智大学を受験しなかったのは、単に上京するまでその名前を聞いたことがなかったからだし、東工大や電通大は電子系の専門学校みたいなものだろうと思っていた。

実のところ、私は東京の大学の名前は東京六大学ぐらいしか知らなかった。何故ならこの6校は’80年代前半に「ザ・ガマン」というTVのバラエティ番組に出てきたのでその名前を聞いたことがあったから。その順位付けも東大以外はよく分からなかった。


私は別に学歴目的で大学受験したいわけではなかった。特に超高学歴と僅差の学歴差には何も興味もなかった。私は業務上の発明ができて特許取得が可能になる環境が掴めるのならそれ以外はどうでもよかった。なるべく特許制度が充実したある程度以上の規模のメーカーに技術職として就職できればそれでよかったし、そのための妥協(ある程度の学歴)はある程度しかたがないと思っていた。


以上をまとめて言えば、私がやりたかったことは:

1. 数学の一芸に秀でること(何か一つでも取り柄を持つこと)

2. 可能な限り特許申請が充実した企業への就職が可能な学歴がある大学に入ること

3. 首都、特に東京での生活基盤を手に入れること

というものである。

ボトムアップで考えているあたりが、いかにも子供の思考回路である。


受験科目として数学を選んだのは、先述の設計・製図の仕事をしていた父の影響で、理系で日本人の私が数学、特に幾何学が好きだったことに加えて、それが中高生の学問としては内容量が一番少なくシンプルだったから。

同時に歴史学や文学のように教科書には必ずしも書ききれていない知識まで必要なものは二の次とした。実際に参考書を買うお金がなかった。

さらに大学入学後にいつでも生涯学習出来そうな学科は(教養としての学問の価値は否定しないが)「受験科目」としては全て切り捨てた。



話を戻すが、私はある時期から「理系で日本人の私」と「文系で朝鮮人の私」の二重人格になっていた。この二人は双子の兄弟のように付き合い、励まし合いながら、将来の進路と時間を奪い合うように連日喧嘩を繰り返していた。これではさすがにキリがないので、私たちは一つの線を引いて停戦状態に入った。


両者の合意内容は以下の2点だった。

1. 大学進学が決まり上京するまでは理系の勉強に徹すること

2. 東京の大学に入ってからは文理それぞれが好きにすること

というものだった。


大学受験が終わるまでの間「文系の朝鮮人の私」は長い眠りについた。


結果的に受験が終わるまで「理系で日本人の私」が「文系で朝鮮人の私」を押さえ込んでしまう形になった。しかし大学進学と東京への進出が何よりの最優先課題であることは文系で朝鮮人の私にとっても共通課題だったので、これはお互いにやむを得ないことだった。


その後、理系で日本人の私は微分積分まで高校数学の全ての内容を独学で習得した。微分積分は高校三年生の4月から独学を開始して3週間後には教科書とドリルにある全ての問題を解けるようになっていた。

独学というよりも自分で自分に自分の教育をしている状態だった。理系で日本人の私の教師は理系で日本人の私自身であり、なんとも頼りなかったが、他に先生がいなかった。

やがて数学の教科書に書いてあることを全て習得した私は勉強するものがなくなってしまった。

最後には自分で微分積分などの問題を考えてはそれを解いて遊んでいた。

(余談ながら当時の子どもたちの間ではファミコンが大ブームだったようだが、私はそれを持ってなかったので、TVゲームに時間を取られることがなかった。ファミコンを持っていなかったことは神が私に与えてくれた天の恵みだった。)

今考えると、それらの問題を検討していた私は微分積分の基礎を築いたニュートンやライプニッツと同じように原理的なところから微分積分の本質について考えていたのかもしれない。

そのうち、数学の問題を自分で考えることは、その問題を解くよりもずっと価値があり、そちらの方がずっと重要であることに気がついた。

問題を創造するためには、原理的な理解に加えて、想像以上に想像力と創作力が要求された。その問題を解くことにはそれ以上の価値はなかった。なぜならその問題を考案出来ている時点ですでにそれを解けるだけの理解力を手にし終わっているのだから。


これはソフトウエア開発において上流工程の方が下流工程よりもずっと重要であるのと同じことだ。要件定義、分析、設計がしっかりしていれば、実装やテストケースは自ずと決まってくる。

もちろんメソドロジーとして、ウォーターフォールでやれと言っているのではなく、アジャイル開発でやるのだが、流石に最初の要件定義や分析はしっかりしておかなければ、ただの場当たり的なカウボーイスタイルになってしまうだけだ。


また、塾に行っていない私は当然駅前の有名予備校による有料の模試も受けたことがなかった。

広島県立高校向けの模試と高校が選定した業者である福武書店(現ベネッセ)によるIP試験をそれぞれ就業時間内に無料で受けただけだった。数学のIP模試は20分程度で解き終わり、そのあとは答案回収まで寝ていた。

結果は100点、全国1位で、偏差値は80以上だった。東大理三の合格予想偏差値が76程度で、早慶は68,9程度しかなかったと記憶するが、MARCHについては覚えていない。


私は自分自身を独学の実験台にしていた。

実際の大学受験は早慶を志望校とし、東京理科大学、MARCHクラスの四大学にそれぞれ数学科を選択した。


(以下に続く)

『【思い出】理系で日本人の私と文系で朝鮮人の私の共同戦線史 その2』以下の続き『【思い出】理系で日本人の私と文系で朝鮮人の私の共同戦線史 その1』小さい頃、私は創作が好きだった。大人の言葉で言えば、創作家になりたかった。誰も考…リンクameblo.jp




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