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『【思い出】理系で日本人の私と文系で朝鮮人の私の共同戦線史 その1』小さい頃、私は創作が好きだった。大人の言葉で言えば、創作家になりたかった。誰も考えたことのない面白いことを思いついてそれを実現するのが好きだった。だから私は小…リンクameblo.jp


結果は、流石に早慶は数学も難しいところがあったし、物理はあまり解けなかった。英語は覚えていない。

それに対して東京理科大の数学科は理科の試験がなく、数学のダブルヘッダーだった。これも解答時間が120分ぐらいの長丁場の中20分台で解答が終わってしまった。あとは答案回収まで机にうつ伏せで寝ていた。答案は全問解けたので見直す必要はなかった。

後日、東京理科大から合格通知の電話がかかってきたが「ああそうですか」と言って電話を切った。都心の殺風景なキャンパスを見てから理科大での大学生活に何の興味もなくなっていた。多少の学歴の差はどうでもよかった。

結局、私はそれより下のワンキャンパスの男女比が等しい大学へ行った。


これは「理系で日本人の私」の大学受験が終わり、目を覚ました「文系で朝鮮人の私」が勝手に決めてしまったものだった。

もし私が理系の学部しかない男子学生が圧倒的に多い東京理科大学に行っていたら「文系で朝鮮人の私」は窒息死していただろう。

また「理系で日本人の私」にとっても理科大と進学先の学歴差など最初からどうでもよかったので、そこは長い間眠っていた「文系で朝鮮人の私」に譲歩した。


ところが実際に大学進学のために上京し、一人暮らしを始めたところ、予想をはるかに超えて「文系の朝鮮人の私」が「理系で日本人の私」を押さえ込み始めた。


私は大学に通わなくなり、数学の勉強もしなくなり、毎日新宿や池袋の大型書店に通い詰めては岩波文庫(青)や近代の西洋文学や日本文学、宗教書などのいろいろな文系の本を買い漁り始めた。


大学数学の勉強をせず、文系の古典を読み漁っていたが、同時に理系で日本人の私も眠りについたわけではなく、本来の第一目標である発明のアイデアの検討をしていた。

この頃、私はずっと寝たきりだった。体が悪いわけではなく昼まで寝たあと、午後はずっと横になって文学作品を読み、夜は発明のアイデアを検討し、夜中は不眠症で布団の中で夜明けまで悶々と考えごとをしていた。


なお高校の終わり頃に知り、興味を持ちながら大学数学科入学まで極力読むことを抑えていた作家は稲垣足穂と太宰治だった。私は大学時代にこの二人の作品をほぼ全て何度も読み返して、その一部は暗誦してしまっていた。ところで彼らには共通点は少なく、特に似てもいない。私の記憶では、せいぜい足穂が太宰について「孤独に耐える能力がなかった」「あるべきであるとは思わないが、あってもいい」という意味の発言をしているぐらいである。共通点は強いて言えば、佐藤春夫の門下生だったぐらいだが、それぞれが私の性に合っていた。

おそらく理系で日本人の私が唯一興味を持った作家は稲垣足穂だけだった。逆に太宰治を嫌い、稲垣足穂の『少年愛の美学』を激賞した三島由紀夫にはまったく興味がなかった。


この「文系で朝鮮人の私」が猛威を振るう一方で、特許出願が最優先課題だった「理系で日本人の私」も負けてはおらず、大学在籍中に最低限一回は特許申請をしてみることにした。


しかし運が悪く、ちょうどこの時期から特許庁は活字以外の特許書類は受け取らないと言い出した。そのため私は数学科だったこともあり、当初はコンピューターとプリンターの購入を検討したが、同じ数学科の学友が中古のセットを100万円で買ったという話を聞いて気が遠くなり、PCの購入は諦めた。私は当時大ブームだったファミコン(当時の定価は14800円)ですら高額すぎて持ってなかったのだから。しかし、悩んでいたところワープロ専用機ならプリンター込みで20万円程度で買えることが分かった。そこで私は数学科でありながらPCではなく、キヤノン製のワープロ専用機を購入した。


理学部数学科の私がPCではなくワープロ専用機を買ってしまったことが、その後の私の人生を決定付けてしまった。

「私」の中で「理系で日本人の私」が特許書類を書こうとするのに対して「文系で朝鮮人の私」は同じワープロ専用機で小説やエッセイを書くようになり、このワープロ専用機の奪い合いをするようになってしまった。その結果、私は理系と文系の二足草鞋を履くことになってしまった。


ともあれ、目の前の特許申請に関しては、理系で日本人の私がワープロ専用機を入手後、工業所有権法を学びながら、キーボードの打ち方を習得しつつ、自力で特許申請のための書類をすべて書き上げて初の特許出願を果たした。発明の内容は今で言うところの自動車の自動運転に関するものだった。弁理士は雇わなかったし、雇うお金もなかった。

結局、このときの特許申請は資金難で審査請求すら出来なかった。父も若い頃ここで頓挫してしまったのではないだろうか。

しかし、その後読んだ特許を取得するためのテクニック本に「一旦特許申請しておけば、発明の権利は確保できるので、その後の1年半後の一般公開までの間に企業に売り込んで資金提供を求めればよい」とあったので、自分で書き上げた特許申請した内容を日本中の自動車会社に売り込んだ。するとホンダとスズキからご丁寧なお断りのお返事をいただいた。私は大変に感動し、この2社に感謝した。他の自動車メーカーからはなしの礫だった。

結局、買い手がつかず、初めての特許申請は失敗に終わった。


なおその後30年近く経って、ネットで調べてみると某最大手自動車会社の基礎研究所が私のこの特許書類を引用した特許を取得していたことが分かった。積極的に参照したのか、過去のダメな例として引き合いに出したのかは不明だが、私の特許書類が引用されたのは紛れもない事実だった。

ただその発明の内容に関して言えば、今の自分が当時の特許書類の内容を読み返してみると、結局は自動運転に関する細かいアイデアの羅列に過ぎず、資金があったとしても技術的な裏付けがないために、特許としては成立しなかっただろう。


だが、いずれにしても特許申請までの仕方が一通りわかったということ自体がひとつの大きな成果になった。


またもう一つの成果として、のちに就職活動でプレゼンをする際に、自分の創作力や行動力、知的財産に関する経験、特に特許書類を自力で書き上げたこと、その特許書類で有名自動車会社2社から回答を引き出したことなどを自信を持ってアピールすることが出来た。実際に、このときのアピールが最初に就職することになる外資系企業からの採用に繋がった。これだけでも十分に元が取れたというものだ。

これで「理系で日本人の私」の大学生活と就職活動に一区切りをつけることが出来た。


しかし「理系で日本人の私」が特許書類を書いても審査請求するお金がないため、次第にこのワープロ専用機は「文系で朝鮮人の私」の占有物になってしまった。大学時代、文系で朝鮮人の私はこのワープロ専用機で只ひたすら私小説や随筆などの文章を書き続けた。

当時はネットワークが今ほど発達していなかったため、文章を書いても、フロッピーディスクに保存して、念のために紙で印刷しておくしか私には策が思い浮かばなかった。その印刷した紙が次第に分厚くなり、これなら本が出版できるのではないかと考え始めた。


その後、インターネットブームがあり、ある程度の技術的知識があれば、自分でホームページを立ち上げることもできるようになった。

幸い私は理系で日本人の私がIT関係の仕事をしていた関係でHTMLFTPの知識があったので、私はネット上にホームページを作ることが出来た。

当時のHTMLなどの技術や知識は今思えば単純極まりないものだったが、同時に当時ホームページを制作していた私たちには今ほど深い技術的な知見や経験がなかったため、それなりに苦労した。

私は最初ブラウザとしてMosaicを使っていたが、ホームページを制作しているうちに、そこから派生したNetscapeIEの両方をサポートしなければならなかった。両者はそれぞれ独自規格を打ち出し、表示がバラバラになってしまい、それを両方サポートするのはそれなりに面倒だった。


ともあれ、私は自分の文章を発表するためのホームページを作り始めた。

まず、文系で朝鮮人の私が大学時代にキヤノン製のワープロ専用機で書き溜めてキヤノン独自のフォーマットで保存していたフロッピーディスクのファイルフォーマットを日本人で理系の私が一般的なPCで取り扱えるFATフォーマットに変換し、就職直前に自習目的で買ったPanasonic製のPC Woodyで取り扱えるようにした。なお当時Woodyを買った理由はDVDのない時代に書き換え可能なCDと互換性のある書き込み消去が可能なPDが取り扱えたからである。

その後、パソコン上でHTMLファイルを作成し、そのコンテンツとして書き溜めた文章をHTMLの本文箇所に取り込んでホームページ化した。

そしてFTPHTMLファイルや画像ファイルなどをプロバイダーが提供するネット上のURL先にある私専用のデータ領域にFTPで送り込んで動作確認をした。その後はJavaScriptCSSなども利用するようになった。


なお、私はそのプロバイダーとして、最初に日本でのインターネットプロバイダーの先駆けだったBEKKOAME(現在の株式会社ベッコアメ・インターネット)を選び、その後、ジオシティーズ (GeoCities)、当時NECが運営していたBIGLOBE(のちに分社化され「ビッグローブ株式会社」として独立した)、富士通が運営している@Niftyに活動の場を移しながら、朝鮮人の私が書いた文章を私のホームページ上で発表していった。過去の記事はその都度新しいホームページに転載していった。


その後、ある知人の紹介で、日本でのSNSの先駆けだったmixi20042月から運用が開始されると、その頃から発表の場をmixiに移行した。

これにより理系で日本人の私はHTMLでホームページを作成する必要がなくなり、両者の共同戦線は一時中断することになった。


なお、当初は現在のアメブロのように文系で朝鮮人の文章の発表の場にするつもりだった。特に紹介者が前の会社の同僚だったため匿名で利用し現在も働いている会社の同僚には内緒で活動していた。しかし何かがきっかけで前の会社や現在の会社やその両方で同僚だった人たちに知られるようになり、友だち申請を承認しているうちに、それまでの匿名の友だちと新しく友だちになった面識のある友人両方との同一アカウントでのやり取りが難しくなり、折り合いが悪くなった。

そのため、文系の朝鮮人の私が書いた不特定多数向けの文章を面識のある同僚も読んでいるmixi上で発表することが難しくなってきた。

そのため、当時流行り始めていたSNSではないブログのアメブロを面識のある人たちに内緒で2007412日から開始し、mixiと並行する形でmixiで発表した文書を過去の文書を含めてそちらに転載していった。


200704月のブログ|桔梗の花 (toraji.com) - Reinventing the wheel.


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それが今日まで続いているこのブログである。


その後、私は面識のある人たちに唐突にmixi上で、

「諸事情あってmixiの利用を制限することにしました。特に面識のある人とはメールで直接やりとりができるため、友だちのリストから外させていただきます。」

と一方的に強引なことを宣言して友だちから解除させていただいた。当時電子メールは今のLINEのように個人的なやりとりをする上でまだまだ強力なツールだったのでそんな言い訳も出来たのだった。


その後、FacebookTwitterが日本でも話題になると、それぞれのアカウントをほぼ同じ時期に作成した。Twitterの利用開始が20104月からなので、Facebookの利用開始もほぼ同時期だったはずだ。


その上でFacebookが実名公開を前提としていたためそちらを理系で日本人の私がSNSとして利用することにして、残ったTwitterを文系で朝鮮人の私がSNSとして利用することにした。しかしTwitterは文字数製限があるため、文章の発表は引き続きブログのアメブロで行い、Twitterでは主にそのリンクを紹介することにした。その状況がかれこれ11年以上続いている。


なお私はその後mixiを利用しなくなっていった。プレミアム会員費は当時のコンテンツ保護のためいまだに払い続けているが。


その後さらに電子書籍がブックリーダーとともに普及し始めたが、文系で朝鮮人の私は出来る限り、紙の書籍で出したかった。そうすれば国会図書館にも納入できる。

しかしその費用を賄う当てがないので数冊だけでも自費出版出来ないかとその料金とともに調べていたら、ちょうどよいタイミングでアメブロがブログ記事の書籍化サービスを始めたので、そのサービスを利用してアメブロで自費出版の本を数十冊ほど作ってネットで知り合った人たちに何冊か郵送した。一応経費から一冊2千円の値段を付けていたが、実質は親しい人や日頃からお世話になっている人を優先して無料で配っていた。しかし律儀な人が多く半分以上の人はこちらが辞退しているのにもかかわらず代金を支払ってくれた。


余談になるが、特に、当時メールでやりとりさせていただいていた最も敬愛する音楽家の方が二千円を振り込んでくださったのを通帳で確認したときには本当に震えが止まらなかった。大変恐縮しつつ、振り込んでいただいた代金はありがたくいただいた。

なお、その音楽家の方とは、あのいつも私がYouTubeからTwitterでその演奏動画を共有しているあの方だ。私はあのときのあの方の御恩を今だに忘れることが出来ない。


(以下、続く)




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