もし私がある意見を述べて多くの人たちから「そうだ!そうだ!あいつらに言ってやれ!」という好意的なコメントが返ってきたら私が主張した意見は碌でもないものに違いない。
少なくとも「あいつら」に言うべきことを「あなた」に言っている時点で私が間違ってるね。
言い換えれば「あなた」に言っても仕方がないことだった。
私は常日頃意見を述べる前にそうなってないか熟慮して述べるよう心がけている。
一度発言したら取り返しはつかないのだから。


同じことを何度も言うけど、中高年男性の入院患者で若い女性の看護師に延々と説教を垂れながら、ああしろ、こうしろと要求ばかりする人がいるのだけど、甘ったれたことばかり言っていて、明らかに看護師さんの時間の無駄。他の人の介護時間がそれだけ減るのだけどそれぐらいの想像働かないのだろうか。
こういうおじいさんたちが今の日本の足を引っ張ってるのかと思うと頭が痛くなってくる。


社会心理学理論でいう典型的な「ハイダーのバランス理論」ではないかと。
私も30代の頃にこの問題について散々考えてSNS上の人間関係を分析する技術的な発明にして特許を取りました。
私がブログでよく書いている亡き母に贈った特許の賞状というのはそれでもらったものです。


ハイダーのバランス理論


ヒルティは『眠られぬ夜のために』の中でペシミストについて以下のように語っているが、ペシミストをヘイターに置き換えても同じことではないか。実際にペシミストをヘイターに置き換えて読んでごらん。
それが彼らの正体だ。

【哲学】ペシミストというもの



それでもあえて彼らを改心させたいのであれば、彼らの聞かせるべき言葉は反論ではなくてアフォリズムだ。
人は生まれたとき何も知らない。若い頃には成長しながら正しいことを求めて色々なことを学び吸収していく。しかしその際にどうしても人は正しいと思い込んだ間違ったことも受け入れてしまう。
人はある年齢を過ぎたらそれ以上に正しいことを求めるよりも、若い頃に若気の至りで受け入れてしまった、あるいは押し付けられてしまった正しいと思い込んでいる間違いを取り除いていかなければならない。
もしその対象が自分ではなく他人ならば、聞かせるべきは反論ではなくアフォリズムだ。


「父が秀でた頭脳を持っているから父を敬うというのは親不孝である。」(キルケゴール)
ここで彼の言う父は女性も高等教育が受けられるようになってきた現代では母に置き換えることも可能だろう。
そこで下のブログの私が言い換えた文の父も母に置き換えて読んでみて欲しい。

【言葉】我が友、レーセン その1



日本語に「赤の他人」と言う言葉があるけれども小さい頃この言葉が不思議だった。なぜ人間が赤いのか知らないがそれ以前に赤の他人と他人の違いとは何だろうか。そのとき私は自分の両親を思い出した。親は他人だけども赤の他人ではない。その差は何か。そのとき私は血縁というものを初めて意識した。→

前にも書いたが、共感と同情は別物だ。
共感とは「たまたま同じ立場だった人たちが出会う前から同じことを感じていたことに後から気付くこと」だ。
同情は「立場の異なる人がそれまで考えたこともなかった問題で困っている他人に出会ったときに気の毒に思ったり、協力したいと思う気持ち」だ。
両者はそもそも背反であって両立しない。なお共感が否定されにくいのは当事者たちの限定的な問題であって第三者による批判の対象ではないからであり、同情が(偽善的という意味で)批判されやすいのは同情自体が問題なのではなく同情する者がそれを無意識に共感と取り違えて気がついていないからだ。




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