」はその文章が未完成で、いずれその続きを書くだろうという目印です。


永遠について。

私はこの世に永遠と呼ばれるものはほとんどないと思っている。

世間で永遠と呼ばれるものは(私が定義するところの)「半永遠」でしかない。

その定義は「私が死んだ時点でこの世に存在しているもの」だ。

例えば私が大変丈夫な包丁を持っているとしよう。私がそれを普通に使っていれば、おそらく私が死ぬときにもそれは包丁として存在しているだろう。

私はそれが私の死後も永遠であり続けるかについて確認することが出来ない。

私はその包丁のような物を「半永遠」と呼ぶ。

しかし例外もありそうだ。例えば「1+1=2」は私の死とは何の関係もなく永遠だろう。

しかし例えば宗教の教えはどうだろうか。それは人類が滅亡しても永遠にあり続けるだろうか。

別の言い方をすれば人類に何らかの災難があり、全ての人類がそれを忘れたとき再びそれを思い出す(それに気がつく)人は現れるだろうか。



>「うまれ」と「育ち」は正の相関をすることになる。


そうならないために私は今日までの人生においてどうしたらいいかについて自分なりに考えて計画しそれを実践してきた。

それについて私の考えと経験を書いているのがこの連載だ。


【思い出】理系で日本人の私と文系で朝鮮人の私の共同戦線史 その1

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-12691094192.html


続きはさらに書くが、私自身が今年の6月に50歳になって、自分で立てた計画を自分で達成できた自分の人生を振り返ると、本当に「育ち」と正の相関を成すのは「生まれ」ではなく「気づきの数」だと思う。それは一瞬でその人生にブレークスルーを起こし、それを劇的に変えてしまう。ただやってみる人が滅多にいないだけだ。

まあこんなことを言ったところで、仮に上の私の「生まれ」と「その結果」が認められたとしても、私自身が「外れ値」扱いされるだけの話だろうが。


最近、私は自分を躁鬱気味だと思う。

躁状態のときはTwitterに画像を張り込んでコメントを書いてハイになっている。

鬱状態のときはTwitterに思いついた文章を書き連ねている。

わたしは鬱状態でなければ書きたいことが思いつかないし、逆に鬱状態になると書きたいことで溢れてパンクしそうになる。


いろいろ心の中で煤けて吐き出したいことがある。

若い頃ゴッホの作品が生前全く売れなかったとか宮沢賢治が無名なまま亡くなったというような話を聞くたびに他人事ながら何とももったいない話だと思った。もしタイムマシンがあって生前の彼らに会えたら私ならとあれこれ考えてしまうのだった。



一部の心ない日本人が在日の人に差別発言をぶつけるのを見かけることがある。それに対して在日の人が我がことと受け止め反論すると「そういうお前たち在日の方こそ!」と再反論が返ってくる。

母親は在日だったが自分は在日ではない私はこういう会話を経験したことがない。何故なら彼らは私を「お前たち在日」と呼べないからだ。

仮にそう言われたときの私の心境は、子供の言葉で言えば「お前の母ちゃんデベソ!」と言われた時に近い。「俺の悪口は言っても親の悪口は言うな」ということだ。


上の二つの立場の違いに気がついたとき、私はふたつのことを思った。

ひとつはやはり私自身は在日ではなく、彼らとは過去の経験とそれに基づいた感じ方、考え方が違うのだということだ。

もうひとつはそのために私は彼らとはまた違った視点でものを見ることができるのだということだ。


この際だからついでに言うけれども、日韓ハーフといってもオピニオンリーダーとして有名な在日韓国人・朝鮮人で日韓ハーフ(父親が在日韓国人・朝鮮人で母親が日本人)の人たちの自己主張を聞いていると、私は在日で日系ではない人たち以上に私の感性や考え方との違いを感じる。


率直に言えば、私には彼らの主張が自意識過剰のように思えることが多い。

おそらく理由は私は日韓ハーフであることは意識しても在日であるという意識していないのに対して、在日でもある日韓ハーフの人は在日であることを日韓ハーフである以上に意識しすぎている気がするのだ。


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