Twitterで差別問題の議論を読んでいていつも気になるのは、大抵の場合差別肯定派の言うことにも差別否定派の言うことにも私が感銘を受けることが滅多にないということだ。私は差別には反対だが。

何故ならば議論の進め方が「より詳しくより正しい知識の較べ合い」になっていることが多いからだ。


もしあなたが「相手を言い負かせば、相手はぐうの音も出なくて改心するに違いない」と考えているならば、いつまで経ってもその目的は達せられないだろう。何故ならばあいても同じことを考えているからだ。

言い負かされた相手は納得しないで、言い返すためにより詳しく正しい知識を求めて奔走するだけだ。相手を言い負かしたところで火に油を注ぐだけだ。それなら議論自体をやめた方がいい。


相手の人間を改心させるにはどうすればいいのか。それは相手の心の中にブレークスルーを起こすことだ。そのために相手に与えるべきものはより詳しい知識ではなくそのための気付きだ。


最初の例に戻して言えば、どちらの主張にも私が感銘を受けないのは、その結論が真逆であったとしても、そのアプローチの仕方、つまり手段は同じであって、その手段を採用している両者はともに間違っているからだ。


気付きとは「『今まで意識したことがなかった実感』を意識すること」である。

いわゆる「改心」とは「悔い改めること」であって「変心(心変わり)」とは異なる。


よく「心を入れ替える」と言うが、いまだかつて「心を入れ替えた人間」はいない。心とは自分自身であって、心が心を入れ替えることは出来ない。そう見える人間がいたとしたら、それはその人が「洗脳」されただけだ。

本来の「改心」とは「本人が最初からそう思っていたことにいまさら気付いた」だけのことだ。


キリスト教徒たちがよく言う「懺悔(悔い改めること)」とは「最初から気付いていたことを途中で忘れていた者が今さらながらそれを思い出すこと」だ。その人は根底において何も変わっていない。ただ目先のことに惑わされていただけだ。

「懺悔」とは「原点回帰」であって「変心」することではない。


【思索】改心について その2




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