「○○人でごめんなさい」という人は別の機会には「○○人でよかった」と言い出します。
根は善良なんだけど、それを意識して使ったことがないのです。
そこが「善良」と「善意」の違いです。前者には「意志」が今はまだありません。
要するに「未使用の善人」です。
前者と後者を見分ける基準の一つは彼らが困っている人に何と言って声をかけるかです。
「善良なだけの人」は「がんばれ」と言い「善意のある人」は「がんばろう」と言います。前者は命令形であって、本人は必ずしも一緒にやる気はありません。
彼らは例えば街道でマラソン選手に声援を送る通りがかりの人たちに似ています。
彼らは選手に向かって「がんばれ」とは言っても「がんばろう」とは言いません。何故ならそうは言えないからです。
(実際にはスタッフや支える家族など、いろいろな立場の人々がいるはずで、一概に言えませんが。)
「告白は友人を入れ替える。」
「当社は社内で発生した不正行為の報告者への報復を決して許しません(ので安心して報告してください)。」
と言われても「報復」は面と向かってなされることはなく、「身に覚えのない噂話」特に「指示されたことをしたらそれを根拠とした身に覚えのない解釈に基づいた噂話」が聞こえてくるだけの話だ。
創作家は植物、盗作家は草食動物。
創作家は盗作家の手が届かないところに花を咲かせる。
溢れるアイデアは盗みきれない。
盗作は創作のカンニングである。
アイデアは盗めても着想は盗めない。
盗作家は着想の説明が出来ない。
「以前から温めていた」は盗作のロンダリングである。
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私がA→B→A‘と考えてきて、それを他人に述べたときに、それを聞いた人から、
「AじゃなくてBなんじゃないですか。」
と言われると脱力する…。
私は最近文章を書くためにTwitterを使っている。以前から頭の中で考えていたことがたくさんあって、ふと思い出してTwitterに書き出してみる。字数制限があれば、そのコメントに書く。一通り書き出したらアメブロで一つの記事にまとめる。ついでにnoteにバックアップをする。最近はずっとこのやり方で文章を書いている。こうやって書くのが私にとっては一番早く楽で良い文章が書けるからだ。
なお私は文章を書くのが早い。
例えばこの文章の連載は、下書きなしのアドリブでちょうど1時間で書き終わっている。
何故こんなに早く書けるのかというと、書く前に頭の中でじっくりと考えていて、書く前に頭の中で書き終わっているからだ。私にとって書くという作業はただのプリントアウトに過ぎない。なお頭の中で既に書き終わっていると言ってもその文章は日本語ではない。強いて言えば脳内語だ。それは日本語でも韓国語でも英語でもない。
しかし実際に出力化される文章は日本語になっている。これは出力の際に脳内語から日本語に変換しながら書き出しているからだ。
つまり書き出すという作業はインタープリターの役割も果たしているわけだ。
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