ものには何でも価値というものがある。

それは「問題」も同じで、問題にも価値がある。価値の高い問題もあれば、価値の低い問題もある。これはその問題が(その人にとって)どれだけ嫌か、避けたいか、面倒くさいか、金銭面などで損か、とはトレードオフの出来ない別の話だ。

世の中には「問題」そのものに「固有の価値」があるのにそれに気が付かないで、それを求めず避けたがる人が多い。(問題は)嫌だから、面倒だから、関わりたくないから、損するだけだから、時間がもったいないから、と避けて通る。

そしてずっと歳をとってから自分の人生を振り返ったときに何故この問題に取り組まなかったのかと後悔するが、そのときにはもう取り組む時間も機会もないのだ。

逆に問題自体に固有の価値があることに気がついて、若い頃から取り組んできた人は人生の収穫期においてその見返りを十二分に受けることが出来るのだ。


個人的な話だが、私は学生時代数学が好きでよく勉強をしていたが、私のうちは貧しく私は塾に行ったこともなければ、参考書を買うお金もなかった。仕方がないので、私は自分で数学の問題を考えては自分で解いていた。そしてそれを繰り返しているうちに、私はようやく気がついた。


数学は問題の解を得るために考えるよりも問題自体を得るために考える方がずっと価値があることに。

そのとき私は極めて単純な真理に気が付いてしまった。すなわち問題の解よりも問題自体に価値があるのだということに。

(なお、残念なことだが、これは独学をした者にしか分からないだろう。)


これは何も数学の問題に限らない。

例えば社会問題にしてもそうだ。社会問題といえば、多くの人は既知の社会問題を解決することに夢中になるが、本来我々がやるべきことは、自分が認識していない未知の問題を見出し、その本質を突き止めることだ。

それに気がつかない人たちが大昔から知られていて多くの人たちによって議論し尽くされてきた既知の問題に対して今更ながらの周回遅れで飛び込んでいき、自分で考えたわけでもないのに比較的古い資料から仕入れた古い知識を並べ立てて、以前からその問題に取り組んでいた先人に新しい知識や理論で論破されて悔しがる。結局のところ、それらの知識はいずれも既知の範囲を出ない。彼らは既知の枠に囚われている新参者であって、言わば「既知の問題の囚人」でしかないのだ。

本当に賢明な人は既知の問題と既知の解を踏まえた上でさらにその先にある未知の問題を探し求めることに専念する。そしてそれを次の続く者に伝えていくことで、これまで未知だった問題が世間で認識されていき、新たな議論が巻き起こる。実はそれによってこそ世の中は大きく変化していく。

既知の議論をいくら繰り返したところで世の中は変わらない。周回遅れでその問題に首を突っ込んでくる者はいくらでも湧いてくるし、彼らは流行に乗り遅れた者でしかない。

ついでに言えば、その彼らを説得しようとして大真面目に最新の知識を披露し理詰めで説得に当たる者がいるが、そんな暇があるのならばその知識を土台にして次の問題を探す方がずっと世の中のためになるのではないか。心配はいらない。周回遅れで既知の問題に首を突っ込んでくる者は新しい問題が既知になる頃にはそれまでの議論や自己主張を打ち捨てて、次の問題に首を突っ込んでくるだけなのだから。


それよりも、あなたは、あなたほど最新の知識を豊富に持つ者は世の中にそうはいないことに自ら気がつくべきだ。それらを前提として次世代の未知なる問題を突き止めることが出来る人はあなたしかいないのだから。


未知の問題は既知の答えに勝る。


未知の問題を発見し世に知らしめることこそが世の中を変えていく本来の原動力なのだ。




追記1: 未知の問題に気付きたかったら、多くの人が避けて通る道を行くべきだ。


追記2: 数学の世界に「予想」というものがある。


以下Wikipediaの「予想」から

「数学においては「予想」(conjecture) という語は、真であると思われてはいるが、いまだに真であるとも偽であるとも証明されていない命題を指す。例としては、リーマン予想、ゴールドバッハの予想、P≠NP予想がある。


予想がもし真であると証明されれば定理となり、さらに他の命題の証明に利用できることになる。予想からさらに他の予想を導くこともしばしば行われる。」


そう考えると数学者には2種類ある。

「予想を立てる数学者」と「予想の真偽を証明する数学者」の2種類だ。

これは自然科学や社会問題でも大体同じだろう。



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