戦後日本人側から(狭義の)第三国人と呼ばれた人たちについてのその時代背景が感じられる資料が欲しい。あやふやな二次使用ではなくて。

でもこれが意外に見当たらない。日本人が被害者の観点で取り上げたものは彼らの内面が伝わってこない。

強いて言えば、自伝的なものぐらい。


生前の母やおじ、おばに聞いておけばよかったと思うことが色々とある。しかし仮に生きていたとしても気まずくて聞けないだろう。

昭和三十年代の広島市、呉市、宇部市、下関市あたりについての資料を探している。

小さい頃に断片的に遠回しに聞いた話が一つずつ繋がっていく。


長い人生でほんの一言でその後の人生観や過去の認識が大きく変わってしまうことがある。私の場合二度あった。一つ目は小学生のときの伯母と叔母の間の「私たち韓国人は」という一言だった。これだけでその後の私の人生は大きく変わった。これを聞き逃していたら全然違う人生になっていただろう。これで私は母が在日韓国人で自分がハーフだと分かった。


私の母は父方の祖母を嫌っていた。理由は祖母が母を嫌っているからということだったが、逆恨みのように感じられた。しかし母が在日だと分かって母の気持ちもわかってきた。しかしやはり私には祖母が母を嫌っているようには見えなかったし差別しているようでもなかった。


その後ずっと経って、私は社会人になった。そして二度目の一言がまた大きく過去の認識を変えた。それは母親の義伯父に対する恨みの言葉だった。


私の母は幼いときに父(私の祖父)をなくし、祖母が長男の長男の面倒を見るため、若い頃叔母と二人暮らしだった。その生活を支えてくれたのがひとつ上の伯母だった。伯母はその後義伯父と結婚し、母はこの義伯父に生活の援助を受けていた。この義伯父も母たちと同じく山口県に住む在日だった。


義伯父は呉市に何軒かの飲食店を経営していた。母は高校生のときにそのうちの喫茶店を紹介してもらい働いていた。やがて同い年の日本人高校生の父と知り合い付き合い始めた。昭和三十年代後半のことだ。


しかしその頃から義伯父がある事件に巻き込まれていった。私は若い頃その詳細を知らなかったが、それが広島では有名な話であり、その資料も色々と残されているので、それらを通じてようやくその当時の状況がわかってきた。


その上で改めて考えてみると、父方の祖母が私の両親の結婚に反対したことには十分な理由があったのだった。

私は両親の結婚によって日韓ハーフとしてこの世に生まれてきたが、私が祖母の立場だったらやはり現実的に両親の結婚に反対したのではないか。


なお結婚に反対したのは母方の祖母も同じだった。こちらは家系に日本人の血が入ることを嫌がったようだ。

結局両親は双方の親族から強い反対を受けたが、結婚式もなく駆け落ちの状態で結婚したようだ。

しかし長い事実婚の上で兄を身籠った母に救いの手を差し伸べてくれたのはやはり義伯父だった。


母は義伯父の元で兄を産むつもりだったが、その前に父方の祖母が折れた。両親の結婚を認めてこちらにおいでと言った。次男の私が生まれる三年前の話だから五十年以上前の話だ。



朝鮮系の人たちにヘイトスピーチをする日本人がいわゆる三国人問題を引き合いに出すのを時々見かけるけれども、聞いていてどうもリアリティを感じない。それぞれの事件自体は事実だとしても、二次資料をそのまま引用しているだけで、その語り口調から当時の昭和の時代の雰囲気が感じられないのだ。


知る者言わず、言う者知らず。

差別の根底には偏見があり、偏見の根底には無知があると言う。

無知とは何も知らないことではなくて、表面的なことだけを中途半端に知っている状態だ。

「私が彼らを差別をしてもよい理由」はいつも表面的だ。そこには彼らの視点が欠けている。



桔梗の花読者の皆さんへのオススメ商品です。😊