久しぶりに1人で興奮しています。

稲の多年草化栽培について、紀元前に至るまで調べましたので長くなりましたが最後まで読んでシェア拡散して頂けませんか。

昨年、相模原の小川誠さんからメールが来て、稲の多年草化栽培をしていますとのこと。
 
私は、稲は毎年作付をする単年草だとばかり思っていましたので驚いて直ぐに連絡したのです。
 
先日ようやく訪ねることができて案内していただきました。


 
写真でも明らかなように、確かに昨年の枯れた切り株の中から緑の幼葉が真っ直ぐに次々に出てきているのです。

 

 


 
稲の刈り入れの後、よく「ひこばえ」が出てきますが、それとは全く異なるものです。


 
小川さんの話では次第に茎が太くなって80本から90本に増えて、とんでもない大株に成長するそうで、早いものでは7月には穂が出てくるのだそうです。

考えれば葦もイネ科の植物ですから、わかるような気がしてきました。
 
小川さんは6年間丹念に多年草化栽培の観察記録を残していて、それによれば収穫量も10アール当たり4俵(240キロ)もあるそうで、放置している割にはそこそこです。
 
水田には冬も水を張っているので昔よく見かけたサヤミドロ、イチョウウキゴケがびっしりと生えていて、コナギなどの余計な雑草も全くないのです。
 
多年草栽培では2年目以降は種子を蒔き苗を植えることも要らず、除草の手間もかからず、もちろん農薬・化学肥料も一切使わないのです。

今では神奈川県の絶滅危惧種であるホトケドジョウが水田の側を流れている水路にも数千匹は繁殖しているそうです。
 
ただ問題点が一つ、穂が垂れたら青くても熟してるサインだそうで、早いもので7月から10月まで次々に熟すそうです。
 
多年草になると稲は種子を絶やさないようにと互いに茎どうしがコミュニケーションを取り合いながら順々に穂を出しているのでしょうが 、凄い生命力です。
 
ただ小川さんの話では収穫する際には一斉に稲刈りすることができず、その都度刈り取らなければならないので、大変な手間がかかってしまうそうです。

それを聞いて私ははっと思い当たりました。

5年前に青森県の田舎館村で弥生時代、古代の水田の遺跡を見せてもらった時のことです。

当時の大人と子供の足跡もそのまま残っている 貴重な遺跡を復元してありりましたが 1枚の水田が小さくて1坪 (3.3 ㎡)ほどしかなくそれが次々に連なっているのです。(HPより)



ただ畦は広く80cmはあって丈夫に出来ているのに 不思議な気がしました。

どうして大きな1枚の水田に広げないのだろうかとずっと気になって、私の頭の中から離れませんでした。 
 
やっとわかったのです。
 
弥生時代、古代の稲作は多年草栽培で次々に3ヶ月ほどかけて出てくる稲穂をおそらく水田に入ることなく周りの畦から垂れた穂だけを「抜き穂」して収穫していたのです。 ※壱岐原の辻水田遺跡の復元図(HPより)

 

 


 
そう考えれば、時々テレビで天皇の田植の行事を観ることがありますが、その時の水田の面積が小さいこと、また古来から伝わる天皇家の抜き穂の行事にも納得がいきます。(写真はネットより)


 
さらに小川さんから耳寄りの話を聞かせていただきました。

ネットのニュースでは、中国では水稲研究所が多年草栽培稲の品種「雲大107」を開発して雲南省の棚田地帯で広く栽培されているそうです。

豊作の時には何もしないで10アールあたり 28俵も獲れたそうですが、雲南省では2期作で年に2回刈り入れするので、その半分としても14俵840kgは穫れたことになります。

驚異的な数字なので俄に信じることはできませんが、私はコロナが収まったら小川さんと一緒に中国に行き、多年草栽培の実態を観たいと考えています。

さらに、稲作の起源について、私にとって興味深い話が舞い込んできたのです。

これまでは私は、稲作は大陸から朝鮮半島南部を通じて対馬壱岐から日本に渡ったものとばかり思っていました。

ところが日本の縄文晩期、紀元前4世紀の中国の印文陶器が五島市の福江(私の生まれ育ったところ)から見つかったのです。

九州歴史博物館 当時の課長松岡史さんが「遣唐使前に 大陸から 五島列島への直行ルート(黒潮ルート)があったのではないか」と。

そうであれば稲の日本に渡ってきた道のルートが覆ると指摘していたのです。※アサヒグラフ昭和59年 12月28日写真参照



その後長江の下流域で1万年前の稲作の遺跡が発見されて、今ではアッサム雲南省起源よりも長江下流域が有力なようです。

日本の稲作も弥生時代よりもはるかに前の3000年に遡り、五島列島への黒潮に寄る大陸からの直行ルートも、かなり有力になっているようです。

最近 在野の古事記・日本書紀の研究家 故松野尾辰五郎さんが昭和53年 出版した「日本国家の起源」の復刻版を長女の村山さんから送っていただきました。

そこには日本の稲作の起源は五島市岐宿川原だと書かれています。 興味が尽きないところです。