tedカフェに行って女子化されてきた
土佐藩士の晴野未子だよ◎
楽しかったぁ☺♥
今度はBARタイムに行ってみたい!!
その間、お家のtedはいい子にお留守番してたよ!
今日は「湯築城」のお話です✩
さて、別名「湯月城」と言われるこのお城、
素敵な名前ですよね✨✨
というのも、
愛媛県の名湯「道後温泉」のすぐ側にあるお城なんです!
現在は道後公園という公園になっています。
外堀と内堀があり、
縄張りそのままといった感じですね✨✨
さて、このお城。
天守閣や石垣といった城っぽいものがありません。
「ただの公園じゃねーか!」と言われてしまいそうですが、
このお城なんとも貴重なお城なんです!
そもそも、
「天守閣=城」ではない!!と、声を大にして言いたいものです。
天守閣は城の要素の一つに過ぎず、構築物です!!
天守閣に拘らずとも面白いものは沢山あるんですよ⊂( ˆoˆ )⊃
さて、話がそれましたが…
天守閣や石垣がないのは何故か?
というのも、この湯築城は、
中世の城なのです✩✨✨
この城の歴史は南北朝時代まで遡ります。
当時の伊予の守護であった河野氏という一族のお城で、
14世紀~16世紀までの伊予の政治・軍事・文化の中心でした。
城の移り変わりも見て取る事ができます。
築城当時は中心の丘陵部に城を持つ山城でした。
が、200年近くたつと、
堀を巡らし土塁を築き武家屋敷なども持つことで平山城へと変貌したお城です。
外堀、内堀、土塁の保存状態もよく、
発掘調査も上手くいった為に、しっかりと遺構が残っています。
さて、ここで日本の城の移り変わりについて!
「日本の城」は、古くは弥生時代にまで遡ります。
教科書に載っていた「吉野ケ里遺跡」などに代表される環濠集落がその始まりです。
集落を守るために堀を環状に築いたものです。
村同士の喧嘩とかが耐えなかったのでしょう。
それが、邪馬台国となり政治統制が取れて来たことで環濠集落は衰退します。
その変わりに、近隣諸国からの攻撃を恐れて防衛の為の城が築かれる様になってきます。
九州には水城、大野城などの唐や新羅からの攻撃に備えた堤が築かれます。
(大野城についてはこちらのブログを⇒大野城の話。)
東北には多賀城など、蝦夷からの攻撃に備えた城柵が作られます。(バリケードの様なもの)
西日本は政庁などを取り囲む為に、堤を作ったり石を積んだりしています。
一方、東日本は土塁を築いたり、木などを用いて城柵を作ったりしています。
なんだか、
西日本は石垣造り、東日本(後北条)は土の城という理屈がこの頃に既にある様な気がしますね!
それが平安時代に入ると、屋敷を守るものに変化を遂げていきます。
屋敷を堀や木のバリケードで囲ったものですね✩
さて、
領主やらまぁお偉いさんが敵から攻めれたことを想定すると、
屋敷を木のバリケードで囲っただけではヤバイ!!となりますよね。
そこで、山の上に城を築き、
普段は麓の館で生活して、攻め込まれたら山の上に篭もり応戦するという「山城」のスタイルが産まれました✨✨
そして、この「山城」スタイルは戦国初期まで続く訳ですが…
以後よさんか1543年の鉄砲伝来と共に、戦が変わってしまった事をうけ、
「山城」は衰退、「平山城」へと変化を遂げます。
鉄砲が届く範囲で戦わなきゃ意味が無いこと、
家臣が増えた事で、山では家臣全員住めなくなってしまったこと、
などにより、平山城スタイルになったわけですね✩
さて、湯築城はこの「山城」から「平山城」への変貌の時の城というわけです。
そして、天守閣の登場はあともう少し先のお話です。(だから無くて当たり前ってことね!)
さて、湯築城が遺構がよく残っているという事ですが、それは何故か。
河野氏は四国統一を目指す長宗我部元親と交戦。(諸説あり)
その後、豊臣秀吉の四国征伐で降伏。
湯築城を明け渡します。
小早川隆景の城となりますが、小早川が城を移ることとなり、
福島正則が東予、南予の支配となりますが、
違うお城に入ったために、湯築城はそのままの形で廃城となったためです。
そして、現代になり、
発掘調査や復元工事が行われ、今の形となったわけですね✩
日本の城の移り変わりを楽しめる湯築城、
ロマンを感じました✨✨
さて、
湯築城の後は、
道後温泉まで散歩して、
道後ビールを飲むのがオススメです✨✨
7月末と夏真っ只中だったので、
ビールが最高でした⊂( ˆoˆ )⊃
さてさて、次回の城ブログは伊予松山城だよ✩
この夏の城旅、段々追いついて来た気がしてる✨