目眩がする。
ドストエフスキーの小説みたいだ。
ぐるんぐるん回る感情の終着点はどこか。
幼稚さがもたらす暗雲。くらくらする。

安部公房の短編に、身に覚えのない遺体が部屋にあって、それをどうこうしようとするうちにどんどんとその人を殺した犯人のようになってしまうという話があった。安部公房のこういう秀逸さが好きだ。

人は点と点をすぐに線で結ぼうとする。
それの方が理解しやすくなるからだ。思考が幼ければ幼いほど、“こじつけ”を求める。
でも現実は点と点がつながらないことの方が多い。
それを安部公房は綺麗にまとめて物語りにしてくれる。そこが好きだ。

くだらないやり取りの行く末は何処だ。

「私、選挙行ったことないもん」
とさも自慢気に言う彼女と、

「選挙には必ず行ってるよ」
と鼻高々に言う彼女。

そこに差はない。
何が違うじゃない。同じだけ何も知らないのだ。世の中の上澄みを啜ることを求められて、思考力や直感を鍛えることを否定されてきたわけだから、みんなこんな風になるのだろう。

“衣食足りて礼節を知る。”
という言葉を近頃噛み締めている。
ネットミームになってる“無敵の人”はまさにこれよな、と。

衣食が足りないってのは貧しさの象徴だ。

豊かであれば愚鈍な人も考え成長する時間を確保できる。でも貧しいとそうはいかない。
即断即決を迫られて、そして間違える。
間違えて、間違えて、もう後戻りもできなくなる。

全部捨てて、でも己の満たされない欲求だけは捨てられなくて、誤った方向へ力を振り絞る。

“無敵の人”の誕生だ。

誰が誰を責められるっていうんだ。
みんなほんの少し、0.01mmでも踏み間違えれば同じことをしていたはずだ。

だから自分にナイフを突き立てながら現実について考えなくちゃならない。

少しづつ狂っていく社会に無力に見えようとも抗っていなくちゃいけない。

「日本は平和だ…なぜなら…」


そうだねー。うんうん、ホントそうそう。わかるわかる。ヘイワヘイワ。


私はこの言い回しが好きじゃない。

たいがいその後はグロテスクな理屈が続くからだ。


その人の絶対的価値観、それが個人なら神様への崇拝に近いような価値観、集団なら手篭めにしようとするいけ好かない下心を肯定するための価値観。


私はその透けて見えるその人の無意識の圧力が苦手だ。


「日本は平和だ」

そりゃそうでしょう。不公平な扱いを受けてる人の声も、人権を蔑ろにされてる人の声も、差別に苦しんでる人の声も、無視する仕組みが出来上がってるんだから。

見えなけりゃ、聞こえなけりゃ無いも同じ、そういうのが社会じゃないの。


「日本は平和だ」

そうそう。だからこそ争いや暴力を正義の名のもとに振るいたい人間達が暴れ回ってるじゃない。

“悪いのはあいつだ、だからボコボコにしていい”

いやー平和平和。自警団気取りの幼児達のおかけで平和平和。でもおばちゃん的にはもう夕方だからママのとこに帰って二度と家から出ないで欲しいな〜。


「日本は平和だ」

そうだね、極端な思考から抜け出せずに左翼とも右翼とも呼べない程度の片寄った知識に危機感も感じずにいられるんだ、ヘイワなんだろう。

悪いのは中国で、韓国で、アメリカで、ロシアで、僕らニホンジンは素晴らしい生命体大和魂永遠に大東亜帝国マンセー。


いつでも己の昂った感情を隠すために屁理屈をこねて、言い分が通らなきゃ力でねじ伏せてやるぞと脅しをかける。そのくせに感情的ではないと言う。めんどくさい奴らだ。


意見を共有し進展させる気なんてない。

相手の意見を踏み潰して自分に服従させたいだけ。

そんでそれを指摘して君とは話し合えないから話し合いたくないなと言うと激昂する。ボクハレイセイニチテキニタイワシヨウトシテルノニキョヒヲスルノハオマエガガキデバカデボクトタイトウニハナセナイノガコワイカラダロウ!?


アホくせぇ。

大前提に、お前と腹を割って意見を交わすほどの信頼関係がないだろう。

時間、金、直感、血縁…信頼するきっかけならなんでもいいけどそれがないじゃない。だから“対話”ができない。




いやほんと、日本は平和だね。

ヘイワだよ。

ヘイワ過ぎて虚しくなるね。



たぶんかなり昔からあった食いしばりと歯ぎしりにより摩耗した奥歯が割れました。


じゃがりこを食べてました。


九州醤油味でした。


ジャリってなって、じゃがりこだし、なるか〜って思ってたらどうやら治療した奥歯のコーティングがかけたその破片だったようです。


それでも僕は九州醤油味のじゃがりこを食べ続けます。



こないだ眠れなさ過ぎてYouTubeの名作落語を聞いてたんですけども、今は亡き桂歌丸さんの40代後半〜50歳くらいの時のが上がってまして、歌丸さんの落語ってホントお洒落だよな〜と。


落語家の全盛期は50代と言ったのは確か歌丸さんだと思ったんですけど、40をこえてやっと声がのってくるんだと。

そして古典も創作も自分の色を持って説得力のある噺ができるのが50代頃なのでしょうね。


そんなことぼんやり思い出しつつ、お化け屋敷を聞き終えて「ふふふっ」とほくそ笑みながらYouTubeのコメント欄を見ましたら、


「歌丸は下手」

「円楽には勝てない」

「ホントこいつダメ」


的なコメントが…!


え〜〜〜。

お前の感性イカれてんなぁ🦑🦑🦑🦑と。


歌丸さんって横浜の人なんですよ、だから若かりし時に自身で「自分は東京で生まれ育っていないから江戸っ子にはなれない」と悟り、それならばと“浜っ子”として落語をやってるんです。


だから噺の中で出てくるチャキチャキ江戸っ子キャラの表現は東京(江戸)を知らない地方の人間がイメージするようなキャラクター表現になってる。


あれもたぶん意識されてたんでしょうけども、そういうのって王道の江戸前落語(落語における王道の定義は面倒なことになるので割愛)しか聞いてないと違和感があるのだろうなと、それが落語が下手だって話になっちゃうんでしょうな。


私だって幼少期は江戸落語しか聞いてないし春風亭小朝師匠大好きキッズでしたから、コテコテな関西弁の上方落語は全然耳に入らなかったですから。

(面白いもので漫才はオール阪神・巨人大好きキッズだったので一時期は関西弁じゃないと嫌だった)


でもやっぱり三代目米朝の噺を何度かラジオで聞いた時に「お洒落な声」だなぁって感じて、そのうちに上方落語も好きになっちゃったんですね。


そして三代目桂米朝も生まれは関西ではなく、中国という。


1人きりで舞台に立ち、何かをやる時ってのは細胞のひとつひとつ、その人の人生のあらゆる出来事、時間、深みが現れちゃうのでしょうな。