あけましておめでとうございます。
三が日が過ぎてもう早く日常が恋しいです。
この冬の自分の課題図書。
途中で何度も「ああ!」という感嘆が出てしまいます。カウンセリング入門の方も読んだんですけど、さらにこっちの方が私的には好みでした。
例えばセッション、というものを私もしています。
その時の危うさなり、あるいは可能性についてこの本で書いてあります。
時々、セッションに行ったら相手のセラピストなりコーチなりから『どうして前に言ったことをやってないんだ?』という風に強く咎められたというような事を聞きます。
いや、私が知らないだけでこのやり方なんだろうか。。笑
相手をコントロールしたい、という欲求が湧いている時、それを自分でわかっているか、実際にその(セラピストである、という名を使って)振りかざすかは、全く意味が変わってきます。
相手の間で起きてる事を観れるかどうかがポイントになってきます。
これは自戒を込めて、、ですけども
お話ししてる時にそういう相談には
私のところに来なくてもいいですから何かしらセッションを受ける時には絶対に本人が瞑想をしているセラピストのところに行ってくださいと言います。できれば一回二回経験がある、程度の人ではなく常に日常的に継続してる方に。
人というのは自分を見えていない時に相手にそれを映し、要求してきます。
なのでできるだけクリアな人のところに行ってくださいと伝えます。
でも、この世にはコントロールされたい、相手の言う通りに逐一していたい!という欲求の方もいるのでそういう時にはどうぞご自由にその世界を楽しんでください!と思います
セッションする側が偉く
来る側のお客さんは何もわかってない、と見なすやり方のところはそれ以上のことは起きません。
私はいつも相手の中にある
何か表現されたいものは何なのかそれを観ています。
ある人に『人間観察が得意ですね』というような事を言われましたが、全く観察、というものは興味ないです。
そもそもが、そんなに沢山の人に興味があるタイプじゃないんです。笑
私は相手との間に起きてることと
私の内側で響いてるその人を感じてます。
何か、自分を貸している、ということに近いものがあります。
私があなたのことを多く知っていて、あなたが自分のことを全く知らない、ということはありません。
口では『私は全く自分のことがわからないのです』という時、内側でまた違うことが起きていると感じることが多くあります。
対面でのセッションというのは
そういう自分では表現しきれないものを、相手の(セラピストの)スペースを借りて表面化してみる、ということだと思ってます。
2020年は、ますます人がその人として生きていきたい、表現したいと思える時代なんじゃないかな。
そういうことの一つのお役にたてたらと思います。