7月19日、20日に行われる川瀬祭りの打ち合わせに行きました
今年は四女が小学生になり、拍子木として参加します
私は生まれも育ちもここの町会ですので、子供の時には拍子木として参加していました
私は物心がついた時から、いえ、つく前から祭りが大好きだったので、もう楽しくて楽しくて、終わってしまうのが辛くて辛くて、たまりませんでした
長く祭りが受け継がれるためには、その時その時の関わる人の熱い気持ちが必要です
『祭りをより良くしたい』
はたから見ていると、毎年同じように見えますが、それぞれのその気持ちが、時にはぶつかり、時には融合し、その年にしかできない祭りになります
私も17年前に長女が参加したての頃には、『どうしたらもっと良くなるのか』を真剣に考えて、行動してきました
『子供達に祭りを楽しんでほしい』
その一心でした
そして、行動して改善されたことは、その後に人たちには、当然のこととして受け継がれています
本音では感謝してほしいし、感動もしてほしいのですが、今は当然のことなので、誰からも感謝もないし、感動もありません
ふと、親子の関係に似ていると思いました
子供は、自分が育ててもらうのは当然のことと思っています
私自身も、子育てをしても、親へは感謝の気持ちなどわきませんでした
それどころか、不満が湧き出てくる始末
親から受けた嫌だったことはしないようにしようと思ってもいました
先に生きるものは、いつもその時の精一杯で生きています
いいと思うことをやっていくだけです
祭りも子育ても、後に生きるものから、先に生きるものまでやってみると、少し俯瞰で見ることができます
その時に、その人たちが、どう思って、どう行動するのかは、いいも悪いもなく、ただ、そうしたかった
ただ、それだけです
親から見れば成人した子供の勝手な行動も、子供は全くその意識もありません
それは、かつての私の行動だったりします
どんなに細かいところに気をつけても、大きな流れの中にある性質のようなものは、しっかり受け継がれています
『下手な考え休むに似たり』
ずいぶん真剣に考えたつもりでしたが、休んでいた時間の方が長かったようです
祭りも子育てもやりたいようにやればいいし、それ以外はできないのでしょう
私は今日も秩父屋台囃子のそばにいます
お読みいただき、ありがとうございました
おのだはるな