巨人 ⑫ 断髪 | まつすぐな道でさみしい (改)

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1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)

1924年 金 信洛  誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年 金 信洛 二所の関部屋入門

1945年 第二次世界大戦終結

1950~53年 朝鮮戦争

1950年 力道山 大相撲廃業

1955年 馬場正平 巨人軍入団

1959年 馬場正平 巨人軍退団 






ひとつ言っておきたい事は、私が裏切られた事と協会の冷たい仕打ちに対して、憤慨していた





1940年2月二所の関部屋に入門。四股名を力道山と名付けられた信洛は5月場所で初土俵を踏み、親方の付き人になり相撲のいろはを直々に教わる事で順調に出世していくのだが、部屋に於いては朝鮮半島の出身である事から兄弟子達にいじめを受ける事も多々有ったという。その悔しさをすへて土俵にぶつける事で力道山はその強さは増して行く。


1942年 入門2年目の力道山は5月場所を幕下で迎え、場所後の朝鮮・満州巡業に出る一行に加わっている。

この巡業で2年振りに実家に立ち寄った力道山は、日本に渡る際故郷と共に捨てて来た妻との再開を果たす。恐らくこの短い滞在の間に仕込んだのが、アントニオ猪木が訪朝の際力道山の娘に会った言っている金英淑だろう。


入門5年目の力道山が十両に昇進し関取の仲間入りを果した翌年、1945年8月15日 日本の敗戦という結果で戦争に終止符をが打たれ、日本と朝鮮の立場が敗戦国戦勝国とに逆転する事となる。

朝鮮人民の誰もが歓喜の中この結果を迎え、約300万人もの人々が祖国朝鮮へと戻って行く中、力道山は相撲の道を選び日本に留まる決意をする。この頃の力道山は戦勝国の国民という意識も手伝ってか、兄弟子にいじめられ続けた戦時中とは打って変わり、自由奔放な行動が見られるようになる。

今では考えられない事であるが、バイクに夢中になっていた力道山が、マゲをなびかせてアメリカ製の真っ赤なインディアンに股がり場所入りしていたというのは有名な話。



周囲が抱く敗戦国民としての劣等感と、それを嘲笑うかの様な力道山の驕り。

これが少しずつ親方、兄弟弟子、強いては相撲協会との間に溝を作る事となり、力道山は徐々に孤立して行く。


1946年には初入幕を果たし、翌47年6月場所では前頭8枚目で9勝1敗の好成績。優勝決定戦にまで駒を進めた力道山は、それまで二場所連続で優勝を果たしている横綱羽黒山を寄り立て、土俵際の外掛けで倒し、あわや力道山の初優という場面で有った。



しかし、これは掛けた足が勇み足ではないかと物言いが付き、結局差し違いで羽黒山の勝ちとなり、力道山初優勝は夢と消えてしまう。

そして1948年の十月場所、東の小結で6勝5敗と勝ち越したものの、翌場所の番付では西の小結に下げられている。

実際こうした措置が、全て協会側の悪意であったのかは定かではないが、力道山は周囲の人間に朝鮮人に対する差別だとこぼしていたという。



1950年5月場所で関脇昇進。8勝7敗と勝ち越し大関昇進が見えて来た頃、力道山の元に耐え難いニュースが飛び込んで来る。6月25日朝鮮戦争勃発。祖国が内戦状態となり、38度線を堺に2つの国家に分断されているという。

日本の植民地支配から解放された歓喜から5年、今度は祖国が分断され帰る事もままならい望郷の念。この辺の感情は想像に耐え難い物がある。


そして大関昇進の掛かった9月場所を間近に控えた9月2日未明、力道山は日本橋浜町にあった自宅の台所で自ら髷を落とし廃業してしまう。

力道山がなぜ自ら髷を落としたのかは、本人が口を閉ざしたまま亡くなった事もあり真相は不明だが、自伝「空手チョップ世界を行く」には、「ひとつ言っておきたい事は、私が裏切られた事と協会の冷たい仕打ちに対して、憤慨していた」とだけ書かれている。



髷を切ってから3ヶ月後の11月、力道山は日本人としての戸籍を申請している。

戦後の混乱期での戸籍の整理をしていた時期である。力道山百田巳之吉の長男として養子縁組を結ぶ事で、日本人国籍を取得し戸籍名を百田光浩と改めた。


この後力道山が朝鮮人名である金 信洛を名乗る事はなかった。