巨人 ⑱ おとぎ話 第一話 鬼ヶ島 | まつすぐな道でさみしい (改)

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師匠は訳あって終身刑で服役中…

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1904年 牛島辰熊 誕生(熊本県横手町)
1917年 木村政彦 誕生(熊本県飽田郡)
1922年 大山倍達(崔 永宜誕生(朝鮮・全羅北道)
1924年 力道山 (金 信洛) 誕生(朝鮮・咸鏡南道)

1935年 木村政彦 拓殖大学予科進学

1936~37 全國高専柔道優勝大會
     拓殖大学予科連覇大将木村)

1937~39年 全日本選 木村政彦三連覇

1938年 馬場正平 誕生(新潟県三条市)

1939年 第二次世界大戦開戦

1940年 第3回 紀元二千六百年奉祝
         天覧武道大会 木村政彦優勝
1940金 信洛(力道山)二所の関部屋入門

1945年 第二次世界大戦終結

1949年 全日本選手 木村政彦優勝

1950年 朝鮮戦争開戦
1950年 3月プロ柔道 国際柔道協会発足
1950年 9月 力道山 大相撲廃業

19511月27日 木村政彦 渡米(ハワイ
1951年 9月30日「朝鮮戦争在日国連軍
        慰問プロレス大会」開催
1951年 10月28日 力道山プロレスデビュー

1952年 2月3日 力道山 渡米(ハワイ
1952年 6月10日 力道山 米本土上陸
                              (サンフランシスコ)

1953年 朝鮮戦争休戦
1953年 7月3日
      日本プロ・レスリング協会発足



1955~59年 馬場正平 巨人軍入団






『日本略史 素戔嗚尊』(月岡芳年・画)









朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ


神話
1945年 8月15日 正午 日本国民はラジオを通して昭和天皇「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)を聞く。

この瞬間、いや...正確に言えば、1946年 元日  官報号外に新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ(人間宣言)が掲載されたという新聞記事を目にするまでなのだろうか? その時まで、日本国民にとって天皇陛下という存在はであった。



1940年 6月20日 現人神であらせられる天皇陛下の御前で、第3回 紀元二千六百年奉祝 天覧武道大会を優勝した木村政彦とは、日本国民にとってどのような存在だったのだろうか?



ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトのような神話の中の登場人物? 



いや、もう少し分かりやすく言えばおとぎ話に出て来る金太郎桃太郎のように、人々に語り継がれ日本国民ならば誰もがその存在を知る、大日本帝国の強さの象徴であり、実際に男はその評判に負けぬ本物の強さを誇っていた。


しかし、そんな抜群の知名度と実力を誇る男の最大の悲劇は...




彼が浦島太郎のような放蕩者だった事なのかも知れない。













元年者
ハワイに於ける日系移民の歴史は古く、まずその切っ掛けとなったのは、1860年(万延元年)日本の遣米使節団がホノルルに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託した事に端を発します


1835年 ハワイ王国では貿易負債削減のため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが現れ、白人投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され一大産業へと急成長していきます。

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、当初は中国からの移民を迎えましたが、中国人らは定着率が悪く、契約終了後独自に別の商売を始めるなど、彼らに対する風当たりは次第に強くなっていきます。ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになるのですが、日本もその対象国とされ、その為に送られたのがこの親書でした。


しかし、この時期の日本は幕末の混迷期にあり積極的な対応がなされず...早い話ほったらかしにされていたのですが、これに業を煮やしたカメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について日本政府と交渉するよう指示します。

ヴァン・リードは徳川幕府と交渉の末、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受け移民の準備を進めますが、その間に日本側政府が明治政府へと替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化してしまいますが、この時すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまう。

日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣して抗議を行い、折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けます。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年(明治4年)8月日布修好通商条約が締結されました。


こうして送られた初の日本人労働者が、元年者と呼ばれる(明治元年から付いた名前)ハワイに於ける日系移民の先駆けです。




鬼ヶ島
1885年(明治18年)1月 日布移民条約が結ばれハワイへの移民が公式に許可されると、政府の斡旋した官約移民と呼ばれる人達が新天地を夢見て次々と海を渡りる事になりますが、そこに待っていた現実は悲惨なものでした。


サトウキビ耕地での移民契約は3年間ハワイ語で「ルナ」と呼ばれる現場監督はポルトガル人で、長い鞭をもって炎天下で長時間に及ぶ牛馬に等しい労働でありながら、賃金は1時間7セント、1日10時間労働で、1カ月26日間働いても、たった18ドルにしかならない低賃金です。しかも、同じ雇い人でありながら、白人の監督は家を一軒与えられていますが、日本人移民は家畜小屋のような掘立小屋に雑居という、人種差別を強いられた時代でした。


1900年(明治33年) ハワイがアメリカに併合されると、より高い賃金を求め米国本土(主にカリフォルニアなどの西海岸)に渡る者ハワイに定住する者と別れるのですが、いずれにせよ日系移民は、偏見と差別に苦しむことが多く、生活も苦しいものでした。しかし、彼らはその勤勉さで荒野を肥沃な畑に変え、ハワイの土にしっかりと根を下ろすようになります。特に1世の世代は過酷な労働をこなしながら、稼いだお金を自分達のためには使わず子供たちの教育のために注ぎました。

そんな努力の末2世の代には市民権を得て、少しずつ実りある生活環境を得ていくのですが、そんな彼らの苦労はこれだけでは終わりません。


1941年(昭和16年)12月7日、日本軍による真珠湾攻撃後、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領「大統領令9066号」を発令し、アメリカ本土の主に西海岸に住む日系人とその家族を強制収容所へと隔離することになりました。住み慣れた家を追い立てられ、全ての財産と思い出を没収された12万人もの日系人たちは砂漠や、荒地など人里離れた場所の日系人強制収容キャンプへと送られたのです。

一方、農場での労働者などにより、日系人人口が増加していたハワイではどうだったのでしょう?

1940年代初頭、日系人の人口はハワイ全州の40%をも占めていました。そのすべての日系人を隔離するとなると、たちまちハワイの経済は成り立たなくなってしまいます。また、莫大な費用も掛かるので、その中から1,200~1,500名の1世、2世のみが強制収容所に送られました。それらの人々は、仏教や神道の聖職者たち、日本語学校教師や経営者、漁業従事者、日本語新聞の編集者、領事代理など、日系社会のリーダー達でアメリカ政府より、日本への忠誠心が強い人々とみなされたからです。





日系アメリカ人の父親が収容所で拘禁されたとき

アメリカ陸軍の担当官は有刺鉄線の後ろで新兵を募集していると言った

父親は怒って立ち去ったが、次の日に彼は入隊した

なぜなら、アメリカ人であることを証明するために死ぬ準備はできていると言ったんだ



第442連隊戦闘団
第442連隊戦闘団は、アメリカ戦史上もっとも多くの勲章を受章した部隊です。ヨーロッパ戦線で勇猛に戦い、その死傷者数はのべ9,486名死傷率314%という数字からも、その猛烈なる死闘ぶりがわかるはずです。死傷率がなぜ314%かというと、連隊の消耗が激しく次々と補充兵が入り、そのつど負傷兵が出た為です。

そしてこの連隊は指揮官以外のすべての隊員が、敵性外国人のレッテルを貼られ、父や母を強制収容された日系移民2世・3世の志願兵で編成された部隊でした。



第442連隊戦闘団が人種差別の中、戦場でどれ程の激戦を繰り広げたのかを物語る。アメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるエピソードが残っています。

1944年10月24日 フランス戦線で第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事態が発生します。数度にわたる連隊の救出作戦も失敗し、「失われた大隊」と呼ばれ始めていたのですが、10月25日 第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下ります。

この作戦に参加したダニエル・イノウエ氏は、後にこう語っています。

「いわば使い捨てでしょう。しかし、私たちはそれを歓迎したのです。
なぜなら、それこそ(日系人の)価値とアメリカへの忠をを明するチャンスでしたから」


この戦いで孤立したテキサス大隊を救うため、第442連隊戦闘団の日系人兵士たちは玉砕覚悟の猛攻撃を仕掛け、10月30日 ついにテキサス大隊を救出することに成功しました。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜びましたが、大隊のバーンズ少佐の口から出た言葉は、「ジャップ部隊なのか…」 これには第442部隊の少尉が 「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」 と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したと言いますが、戦場で彼らがどのような待遇を受けていたのかが伺えます。

また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」 と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐はこう答えます。「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です」この戦闘でテキサス大隊の211名を救出する為、第442連隊戦闘団は216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負ったといいます。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったそうです。


最初からアメリカ人と認められている他の兵士たちとは違い、アメリカで生まれ育ってはいるものの、日本の血を引く彼らにとっては、自らの命を差し出し、その犠牲を数字で表す事でしか国への忠誠を示し、偏見に打ち勝つすべが無かったのです。



1946年 7月15日 終戦の翌年、戦後処理を終え帰国の途に着いた彼らは、ワシントンのホワイトハウスに招かれます。降りしきる雨の中、政府高官だけでなく、日系兵士の活躍を新聞報道などで知らされて集まった一般市民らを前に、トルーマン大統領は歓迎演説でこう述べました。「諸君は敵と戦っただけでなく、差別とも戦い、そして勝ったのだ」 そして、自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」を括り付けたのです。これは合衆国陸軍では初めての事です。


しかし、そんな彼らの勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見は変わりませんでした。


部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につく事も出来ず財産や家も失われたままの状態が暫く続きました。









人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は落ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

(坂口安吾・堕落論




堕落
1951年1月27日 木村政彦は1週間の船旅の末ハワイの地に降り立った。

これは日系2世の経営する松尾興行というハワイの興行会社に招かれ、第442連隊と警察、ハワイ大学で柔道の講師をすると共に、プロ柔道としての興行を行なう契約になっているのだが、この渡米に際して木村は師匠の牛島辰熊裏切り、夜逃げのように日本を飛び出していた。




木村政彦の柔道家としてのピークは1939年 天覧試合を優勝し、牛島辰熊と共に師弟の鏡と日本国民に持て囃された時期だといえるだろう。その後、戦局の悪化さえなければ全日本選士権10連覇も夢では無かった。しかし、木村は戦争により完全にその全盛期を切り取られる事となる。

実際に彼は、敗戦後1949年に開かれた全日本選手権で優勝しているのだが、これは戦後、武道が日本人の闘う意欲やDNAを呼び覚ます事を恐れたGHQの通達により、柔道を含む武道が暫く禁止されており、5年間まともに柔道の練習などしていない中での優勝だった。


この間木村は、家族を養うために地元のヤクザとつるみ闇屋で日々の生計を立て、柔道着さえも芋と交換し手放してしまっていた。
それでも、酒と女はしっかり買っていたのだが ...


まさに堕落論そのものの生活だが、これは、ただ柔道が強いというだけでは生きて行けない時代であり仕方ない事なのだが、こんな時代に於いてもその堕落を一切許さない人物がいた。



言わずと知れた、鬼の師匠 牛島辰熊である。







ダブルブッキング
柔道の歴史に疎い私はずっと、講道館加納治五郎が日本に数多存在した古流柔術を纏めあげ、現在の柔道の技術体系を作り上げたのだと思っていたのが、事はそれ程単純ではなかったようだ。


戦前の日本には上記 ↑ 図のように講道館の他に武徳会(武道専門学校を擁す半官半民の組織)、高専柔道(寝技を中心とする学生の大会)が存在し、3大勢力として鎬を削っていた。

そして、戦後GHQに対して 「柔道は武道ではなくスポーツである」 と宣言する事で生き残りを掛けた講道館以外の2大流派はGHQにより解体され、戦後日本の柔道は講道館=全柔連という図式の独占支配の元、武道からアマチュアスポーツへと変貌して行く。

しかし、これはもうしょうがない。なんといっても日本は戦争に負けてGHQに占領されているのだから!  時代の流れに乗るしか無いでしょ?

などという軟弱な理屈は、終戦間際に国家のため東条英機を暗殺し戦争を止めようなどと本気で計画する。筋金入りの国粋主義者である鬼の師匠には通用する筈もない。


1950年 3月2日 武道としての柔道本来の姿を取り戻し、更には戦地から引き揚げて来る柔道家達の受け皿を作るという崇高な理想の下、牛島辰熊はプロ柔道際柔道協会を結成し、当然ながら、これには一番弟子の木村政彦も否応無しに巻き込まれて行く。


もちろんこの団体のエースは木村政彦になるのだが、その他にも山口利夫、遠藤幸吉、月影四郎、大坪飛車角、ミスター珍などの後にプロレラスラーに転向する逸材を取り揃え、華々しくスタートしたこの団体ではあったが、大相撲協会のような興行のノウハウを持たない団体は徐々に資金難に陥り、その経営は1年も経たない内に完全に行き詰まっていた。


そんな折、運の悪いことに木村の妻斗美が肺結核を患ってしまう。この時代、日本で肺結核は死の病であり、妻を救う為には当時日本では手に入りにくいストレプトマイシンやパス(いずれも結核の薬)を手に入れる必要があり、木村は師匠牛島辰熊の団体に見切りを付け、山口利夫と坂部保幸を引き連れ海を渡る決意をする。


このように書けば、病床の妻を救う為、涙ながらに師匠を裏切らなければならなかったという美談ではあるが、実際にはこのハワイ興行の契約はプロ柔道の旗揚げ直後、随分と早い時期に成立している事が発覚し、木村は渡航差し止めを求める師匠牛島辰熊に訴えられている。


主力選手に抜けられ、復活の道を断たれてしまったプロ柔道は解散を余儀なくされてしまう。この時、若い選手達の行く先を案じた牛島は、自分の所有する土地を売り払い選手達への退職金に充てている。



理想に燃え立ち上げた団体と財産だけでなく、師弟の絆をも同時に失う事となったこの男の心の痛みは察して余り有る。



これは、鬼の師弟が二人三脚で天覧試合を制し、日本国民から師弟の鏡と持て囃されたあの栄光の日から10年後の出来事。








デビュー
木村のハワイでの人気は、本国日本をも凌ぐ物であった。第442連隊への慰問を兼ねた柔道指導や模範試合など、木村はハワイ諸島を回っていくのだが、どこに行っても木村の周りには伝説の男を一目見ようと黒山の人だかりが出来る。

祖国を離れ遠く外国で暮らす日系人にとって木村は祖国日本の象徴であり、むしろ日本国内よりもその神秘性は上だったのかもしれない。


そして、当然そんな金の匂いをあの大物プロモーターが見逃すはずは無ない。松尾興行との契約が満了するのを待っていたアル・カラシックは、すぐに木村達をスカウトする。


1951年4月22日 シビック・オーデトリアム
ハワイに永住し柔道の指導を希望する坂部保幸は参加しなかったが、木村政彦山口利夫の二人はカラシック配下の日系人レスラーからプロレスの簡単な段取りを学んだ後、道着を脱ぎリングに立つ。
坂部保幸は後にハワイ柔道の父と呼ばれる。


木村のプロレスデビューは既に地元新聞で木村政彦7段はアメリカ人レスラーの挑戦を受け付けると表明。 どうやらこの地では日系の柔道家達が西洋スモウに負けていると聞くが、私が日本柔道の本当の強さを証明しよう! と語っている」と、スポーツ欄のトップで報じられており、会場は詰めかけた日系人移民で超満員に膨れ上がり、そして爆発した。


真珠湾攻撃以来肩身の狭い思いをして過ごして来た彼ら ... いや、明治元年 祖先が初めてこの地を踏んで以来ずっと虐げられ、そして自分達を見下して来た鬼たちが、祖国日本からやって来た英雄に次から次へと投げ飛ばされるのだから、これほど痛快な見世物はないだろう。


当然、その後も鬼退治を見ようと日系人が押し寄せ、連日超満員に膨れ上がった会場は今までにない盛り上がりを見せた。


木村達は1ヶ月ほどで帰っていったのだが、この短期間でカラシックの懐は大いに潤い、この時カラシックの頭にはすばらしいアイディアが浮かんでいた。


柔道と相撲の国の人々は「日本人がアメリカ人を倒すという物語」を心待ちにしている。

そう、観客の望む物を提供し、それを金に替えることがこの男の仕事である。


カリフォルニアなどの西海岸エリアにも、沢山の日系人が住んでいる。



そして … 日本へプロレスを輸出してみてはどうだ?


 成功すれば、新たにビックマーケットが誕生することになる。


レスラーはこちらから送ってやればいい。マネージメント料で儲けられるし、本土から一流の選手を送り込んでやれば、日本の金で雇ったレスラーを使い行きと帰りに2回興行を打つことが出来る。

この当時アメリカ本土から日本への直行便は無く、飛行機は給油の為必ずハワイで乗り換えをしなければならない。


その為にまずは適当な日本人を見繕ってプロレスの会社を興させよう。たとえ失敗したところで自分の腹が痛む訳では無いし、また他の人間を探せば良いだけだ。損をすることなど何ひとつも無い。



カラシックの元にGHQ経済科学局長 ウィリアム・マーカット少佐より、フリーメイソン系慈善団体「シュライナース・クラブ」の主宰で、朝鮮戦争在日国連軍への慰問と障害者のチャリティを兼ねてプロレス興行を開催するので、日本にプロレスラーを送り込むようにと要請が届くのは、彼がそんなビックビジネスに思いを馳せている時のことだった




























しい英雄伝始まる!