巨人 ⑲ おとぎ話 第二話 さるかに合戦 第3部 播種(後編) | まつすぐな道でさみしい (改)

まつすぐな道でさみしい (改)

ジョーサン道の正統後継者。

師匠は訳あって終身刑で服役中…

いっとくけど、超格闘技プロレスjujoの応援blogじゃないからな!

大相撲協会非公認応援blog




世界のどの国にも、未来永劫、癒されることのない悲しい国民的記憶がある。

ブラジル人にとってそれは1950年の自国開催ワールドカップにおけるウルグアイ戦の敗北である






マラカナンの悲劇
1950年7月16日 マラカナン・スタジアム ワールドカップ・ブラジル大会の決勝リーグ第3戦、ブラジルvs.ウルグアイ

開催国として悲願の初優勝を目指すブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破し、決勝リーグではスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で退けており、最終戦の相手であるウルグアイはスウェーデンには勝ったが、スペインには引き分け1勝1分とブラジルはウルグアイに対し引き分け以上であれば優勝が決まる状況にあり、会場となったマラカナン・スタジアムには、地元ブラジルの初優勝をこの目で観ようと20万人を越える観客が集まった。


試合は、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制し、これでブラジルの優勝が決まったかと思われた。

ところが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決めそのまま試合終了。

ブラジルの初優勝を確信していたスタジアムは水を打ったように静まり返り、自殺を図る者まで現れた。結局2人がその場で自殺し、2人がショック死、20人以上が失神するというブラジルサッカー史上最大の事件となり、試合後も多くの後追い自殺者が出たともいわれ、国民のほとんどが家に引きこもる。ブラジルはこの敗戦で死の国と化してしまった。


当時はまだ人種差別が激しい時代で、敗戦による観客の怒りは出場していた3人の黒人選手に向けられ、特にGKのモアシール・バルボーザ選手は死ぬまで疫病神扱いされたという。


この悪夢を記憶から消すため、ブラジル代表は着用していた白いユニフォームを国旗と同じカナリア色に改め、以後白いユニフォームの着用を避け続けることになる。








柔術ナイト
1951年 10月23日 木村政彦とエリオ・グレイシーの対戦は柔術ナイトと名付けられ、会場は前年W杯の舞台となったマラカランスタジアムが用意された。


あの悪夢から1年。

この頃、まだサッカーのプロリーグが発足していないブラジルでは格闘技が1番人気のプロスポーツ興行であり、あの悲劇の余韻を引きずる国民にとってこの一戦は、第二次世界大戦で戦った敵国、日本からやって来た柔道チャンピオンを10年間無敗の英雄エリオ・グレイシーが迎え討つという、最高にナショナリズムを掻き立てられるものだった。

この時、既に日本の柔道家である加藤を下しているエリオのは、まさに優勝に王手が掛かったウルグアイ戦のブラジル代表を思い起こさせるものであり、ブラジル国民はエリオの勝利が前年の悪夢を打ち消してくれることを切に願い、新聞の一面には連日この対戦が取り上げられるというW杯以来の盛り上がりを見せていた。


一方、加藤を絞め落とされるという屈辱の結果を突き付けられた日系コロニアでは、もう勝組・負組などを争っている場合ではない。

プロ柔道興行でボロ儲けしているサンパウロ日報を妬み、批判的な記事を書いていた他の邦字新聞も、もう木村政彦勝ってもらう以外に母国日本の名誉を守るすべは無いとばかりに、すべての邦字新聞が木村の応援にまわり、日系移民25万人の期待が木村の肩にのし掛かる。


そんなプレッシャーで日本陣営が緊張に包まれるなか、戦争にもナショナリズムにも、もちろんサッカーなど一切関心を持たない木村はというと、「木村さん、どうかお願いです … お願いですからエリオを倒してください … 」と、連日木村詣でに押しかける日系人から差し入れた日本料理や酒を食らい、毎晩のように女を抱くという、一人だけまったく緊張感のない日々を送る。


地元ブラジル紙のインタビューに木村は …

「私が負ける可能性は皆無だ。加藤に掛けたフィニッシュ技、十字固めは私には通用しない。簡単に防御できる」

「危ないから、大外刈りは使わないでやろう」

「もし彼が私の前で3分以上立っていられたら、勝ったことにしてやってもいい」

などとおどけた態度で、鈴木みのる顔負けの暴言を吐いている。

完全にアウェイの異国で、こんな緊迫した事態に追い込まれてもまったく焦る様子も見せないのはたいしたものだが、この男の自信には明確な裏付けがある。


1936年 予科二年生(今風に言うと高校二年生)の時、全国の若手五段からの選抜で行われた「済寧館武道大会」で木村は、武専助教の阿部謙四郎を相手に大きな敗北を味わっている。

彼と組み合ってまず驚かされたのは、ふんわりとしか感じられない組み手の力と柔軟さだった。文字通り掴みどころのない感触で、どんな技でも簡単に吹っ飛びそうな気さえした。

これはたやすい、私は思い切って得意の大内刈り、大外刈りを放った。次いで一本背負い。しかしどうだろう。まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。 これではまるで一人相撲ではないか …  相手の技に対して戦々恐々、防戦一方で試合は終わった。結果はもちろん、私の判定負けである。
(木村政彦自伝)

木村政彦を翻弄した阿部謙四郎は柔道と並行して、後に木村の親友となる塩田剛三の師匠である植芝盛平に合気道を学んでいたという。
(参照 巨人 国士無双 (外伝) ⑤ 武神 拓大

恐らくこれは、弁慶と牛若丸のような対戦だったのではないだろうか。

この阿部に敗れたことで奮起した木村は更なる研鑽を重ね、これ以降15年間負けたことが無いという格闘マシーンになった。


エリオの10年間無敗というキャッチフレーズは三男のアレと同じで、信憑性は? だが …
(参照 狂気 12 ~ 神話 ~)

この男は実際に引退するまでの15年の間、戦前の競技人口が数百万人といわれる日本柔道界の頂点に立ち続け、公式記録として負けた記録が残っていない。
この間木村の敗北は、塩田との腕相撲くらいだろう。


恐らく木村はこの地球の裏側にまで来てもなお、自分より強い人間など存在しないと信じていたのだろう。


一方の加藤を破って断然精神的に有利なはずのグレイシー陣営だが、実はエリオが木村に勝てるとは誰も思ってはいなかったようで、最後までこの対戦に反対していた兄カルロス・グレイシーは、最終的に木村の関節技が決まったら即ギブアップすることを条件にエリオの挑戦を許可したという。






マラカランの屈辱
10月23日 試合当日は雨だった。

試合直前まで雨は降り続き開催が自体が危ぶまれたが、これは前座試合の開始時間を遅らせ試合数を減らすことでなんとか事なきを得た。

先の加藤戦以来ヒートアップし続ける状況にブラジル政府はピリピリしていた。前年のマラカランの悲劇の再現を恐れ、ブラジル人と日系人の衝突を避ける為スタンド席への入場を禁じ、観客は芝生のフィールド内のみへの入場と制限されたにも拘わらず、これは資料によってまちまちだが2万数千人~4万数千人といわれる観客が詰め掛け、格闘技イベントでは最高の入場者数を記録し、フィールド内は立錐の余地もない。

観客席にはブラジル副大統領をはじめ多くのVIPが並ぶなかまずは木村から入場する。

ブラジル人の観客から大ブーイングを浴び、無数の生卵が投げ込まるれながらも、木村は悲壮な声援を送る日系人に向け片手を上げて応えながら、あくまでも悠然と入場する。

日系人の少ないリオでは観客のほとんどがブラジル人だったようで、日系人の声援は悲鳴のように聞こえている。

反対の西側からエリオが出てくると、大歓声が起きる。

《不敗木村とグラシエの柔道試合はグラシエが加藤五段に勝つているだけに人気沸騰。超満員の盛況でさすがリオッ子が多く「グラシエ頑張れ」の声援もの凄かった》
(日伯毎日新聞十月二十五日付)


十分3R。ラウンド間の休憩は二分。投げ技や押さえ込み三十秒による一本はなく、勝敗はタップか締め落とすことによってのみ決する加藤と同じルール。

歓声の中両者が試合場に上がる。





第1R  アー・ユーOK?
《ゴングがなる。先に両襟を握ったエリオは、大外刈り、小内刈り、で盛んに私を攻めたてる。しかし私は微動だにしない。今度はこっちの番だ。大内刈り、払い腰、内股、一本背負い投げ。掛けるたびにエリオは大きく吹っ飛ぶ》
(木村政彦自伝 わが柔道)


投げるのは簡単だった。当たり前だが立ち技では圧倒的な差がある。

エリオは後に「お互いの間合いに近づいたとたん振り回されていた。私がつかむ、組むまでもなかった。木村が投げを放とうとする瞬間に全身の力を抜いて、ほんの少しからだの位置をずらすことで木村がバランスを崩してくれたことで完璧な投げを打たれなかったのが私の微かな成果だった」と一方的にオモチャにされたことを明かしている。


《イキナリぶんなげてあつさり締め上げたのでは余りにも飽気ない。相手が寝技が得意とするというので、最初のラウンドでは木村七段得意の背負いでグラジエを倒すや、馬乗りになつてサンザン揉んでやつた》
(伯剌西爾時報十月二十六日付)


《試合の流れはまず、ゴングと同時に二人のファイターがお互いの道衣をつかんで組む。エリオが寝技に誘うと、木村はそれに応じ、圧倒的な体重差を武器にマウント状態に。木村は上になると、次から次へと技を仕掛け始める。アームロック、絞めや腕十字と連続して仕掛けていく》
(ブラジル紙「オグローボ」十月二十四日付)


新聞記事にも残っているように、散々投げつけた後は、腕緘み、十字絞めや袖車と寝技でも木村が圧倒している。

しかしここで極めきれず、木村は袈裟固めに変化し、エリオの頭をヘッドロックのように引っ張り上げ、頚椎にプレッシャーをかける。全盛期にはベンチプレスで250キロを挙げた木村の怪力で締め上げられるのだからたまらないエリオの耳からは大量の血が噴出した。

「アー・ユーOK?」

木村が力を抜いてエリオに聞くと、苦しみながらも「もちろんOKだ」と小さく答えた。

更に力を込め締め上げるがエリオはタップしない。

しかたなく袈裟固めを外し、エリオの頭部に回って横三角で返し、腕を縛ってそのまま強烈な横三角絞めに入った。


木村の両太腿に締め上げられながら、エリオは兄カルロスとの約束を思い出す。

技が完全に決まったらタップすること …

しかし、ギブアップだけはしたくない。そう思っているうちに落ちてしまう。エリオが落ちたことに気付かない木村は、絞めが効いていないと思い、またマウントポジションに戻してしまう。この時の動きで運良く活が入り蘇生するのだが、エリオは後に「あのままいけば私は死んでいたかもしれなかった」と述懐している。


額から汗を滴らせた木村がマウントの姿勢で語り掛けたところで第1R終了のゴングが鳴る。


「エリオお前は本当に凄い」





第2R  キムラロック
第2Rのゴングが鳴ると、木村は背筋をスッと伸ばし自然体のまま前に出ていき、組み手争いもせず、エリオに好きなところを持たせる。

そして、ついに使わないと公言していた大外刈りを繰り出している。これはエリオの粘りに敬意を表したものだろう。

かなりカットされているが、2R以降の動画が存在するので興味のある方は見て欲しいのだが、凄まじい大外刈りが炸裂する。
(参考動画 木村vs.エリオ)

木村は自伝で「脳震盪で失神を狙った」と書いているが、エリオは人形のように叩きつけられても、下が柔らかいマットだったため脳震盪まで至らなかった。

エリオを失神させられなかった木村はすぐさま立ち上がり、エリオの両脚をさばき横四方の体勢に入る。大外刈りばかりが注目される木村だが、この男の真骨頂は高専柔道で身に付けた寝技にある。

そして崩上四方固めに変化し、さらに逃しながらエリオの上半身を両太腿で挟んで得意の腕緘みに持ち込もうとするが、エリオのディフェンスの能力の高さからか中々脇をすくわせない。

動きながら作戦を変えた木村は、崩上四方固めに移ると、エリオの顔を腹で潰し窒息させようとする。そしてエリオの動きに合わせながら枕袈裟固め、横四方と流れるように変化する。一度は下から返したエリオだが、慌てずバックについた木村に転がされ、また崩上や正四方固めで腹を押し付けられる。

プロレスファンなら新弟子時代の高田延彦が剛竜馬に散々この技で玩ばれたとか、似た様な話を耳にすることがあると思うが、これはレスラーの新弟子時代の苦労話によく出てくるラッパという拷問技だ。


エリオが空気を吸うため木村の体を押しのけようと腕を伸ばすだびに、木村は執拗に腕緘みを狙う。「十五回くらいアームロック(腕緘み)を狙われた。あそこまであの技にこだわるとは思わなかった」とエリオのコメントがブラジル紙に残っている。動画ではカットされているが、この攻防が試合のハイライトだろう。

長い攻防の末腕緘みががっちりと極まり、その瞬間、歓声と怒号が交錯していた会場が水を打ったように静まり返る。

客席から見ても完全に極まっていることが分かるのだろう、しかしエリオはタップしない。




「折れッ!」


セコンドからの声が響く。

エリオは激痛で唸っている。

木村はさらに強く決めながら「いいのか?」と尋ねるがエリオはタップする素振りすら見せない。

《こうなれば、ふつうならすぐに参る場面だ。が、エリオはマットを叩こうとしない。それならば、と私はぐっと力をこめる。グジ、グジという不気味な音が一、二度した。シンと静まりかえった会場に、骨が折れる音が大きく響いた。
それでもエリオは参ったをいわない。すでにその左腕には、まったく力を感じられなかった。とにかく一方が参ったをいわなければしょう勝負はつかないルールだ。私としては、もうひと捻りするしかない。試合時間はまだ充分に残っている。たとえエリオの腕の骨がバラバラになろうと、それは私の知るところではなかった。
心を鬼にして、私はもう一度、グッと力を加えた。またグジッという音がした。たぶん、最後に残っていた骨が折れたのだろう。もうエリオの腕は抵抗の気配さえしなかった。
それでもエリオは降参しない》
(木村政彦自伝 『わが柔道』)

見かねたセコンドの兄カルロス・グレイシーがリングに駆け込み、エリオの代わりに木村の背中を叩いてタップする。

木村は技を解いて立ち上がったが、審判のエウゼビオ・デ・ケイロス将校はカルロスによる身代わりタップを認めず、二人をリング中央に呼び戻して再び組み合わせようとする。

しかし木村がこれ以上やっても同じことだと拒む。エリオも自分の敗北を認めたため、やっと審判が木村の右腕をつかみ上げ勝利を認めた。


2R3分20秒。決め技は腕緘み


ゴングが響き、趨勢を見守って静まり返っていた観客が一斉にわいた。

セコンド陣がリングに上がり木村に抱きつく。サンパウロ新聞の関係者も駆け上がる。警察官を押しのけて日系人たちが何十人と走ってくる。その場で木村の胴上げが行なわれ、雨の上がったばかりのリオの夜空に木村の身体が舞い上がり ... 日系人はみんな泣いていた。


一方のエリオは、カルロスらグレイシーファミリーが心配するなか。警官隊たちに抱えられて救急車に運ばれた。救急隊員に酸素吸入を受ける写真も残っている。最後の最後まで、いかに木村に全力で立ち向かったのかが分かる。


審判がなかなか木村の勝利を認めなかったのは、エリオ本人がタップしていないのに試合を止めると会場に暴動が起きるのではと怖れてのことだろうが、そんな心配はまったくなかった。憎しみ合っていたブラジル人と日系人は、木村とエリオのそのあまりにも崇高な戦いに胸を打たれていた。

それは、試合前には罵り合っていたブラジル紙と邦字紙が、お互いに敵を讃え合っている記事からもはっきりしている。




《人々は地球の向こう側からやってきた柔術家の信じられない強さに愕然とし、同時に魅了された》
(ブラジル紙『オグローボ』十月二十四日付)


《コロニア柔道家でグラシエを斃し得る者は今の所遺憾乍ら一人もいない、グラシエの伯国柔道界に於ける第一人者としての地位と権威は飽くまで認めてやるべきであろう》
(伯剌西爾時報十月二十六日付)


この一戦は人種間のつまらぬ諍いを鎮め、戦った当の二入も相手へのリスペクトの言葉を残している。


エリオはブラジル紙にこう語っている。
「はっきりいって私の体はもうボロボロだった。気持ちだけで持ちこたえていた。奇跡が起きて技から逃れられればいいと思っていた。万が一、私があの技から逃れられたとしても次の技で仕留められていただろう。すべては第1Rから偉大なる王者の意のままに進められていたんだ」


木村も邦字紙の取材にこう答えた。
「エリオを寝技で討ち取れる柔道家は日本にもそうザラにいない」

そして自伝には「何という闘魂の持ち主だろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。おそらくエリオは、死ぬまで試合を続けようとしたことだろう。こんな闘魂の持ち主が日本の柔道家にいるだろうか。エリオの闘魂は日本人の鑑だ、と私は思った」と書いている。



播種
1951年 10月23日 この敗戦をグレイシー一族は「マラカナンの屈辱」と呼ぶ。

そして木村の強さを讃え一た族は、腕緘みに「キムラロック」と名付け、米国などMMAの世界では現在でも腕緘みのことはキムラロックもしくはキムラという名称で呼ばれる。

そしてグレイシー博物館には、半世紀前に木村と対戦した時にエリオが着た道衣が飾られている。














めばえ
地球の裏側で木村が死闘を繰り広げている頃、一方の力道山も時を同じくしてプロレスに出会い、旧両国国技館メモリアルホールでのプロレスデビュー戦を飾っている。

(参照巨人 ⑭ 創世記 第1章 銀座キャバレー銀馬車事件)


1951年 10月28日 日本の地に芽生えたプロレスはしっかりとこの地に根を下ろし、創設者である力道山の亡き後、60年代はジャイアント馬場がエースとしてその地盤を引き継ぎ、後を追うように頭角を現した若きアントニオ猪木が70年代に一時代を築く。

その後、多少の浮き沈みを繰り返しながらも80年代は鶴田、天龍、藤波、長州と次代を担うレスラー達が次々と頭角を現し、90年代 には新日の闘魂三銃士、全日の四天王と、すべての駒が出揃ったことでその人気は頂点に達し、日本のプロレスは黄金期を迎えていた。


1998年 アントニオ猪木引退、1999年 ジャイアント馬場死去と、昭和のプロレスブームを支えた2枚看板を相次いで失った時でさえ、日本でのプロレス人気は安泰だと考えられていた。


実際に当時の新日本プロレスは、闘魂三銃士を中心に長州・永島が飛ぶ鳥落とす勢いでドームプロレスを展開し 、一方の雄である全日本プロレスのリング上では、四天王プロレスが展開されるという磐石の状態の筈だった。


政界に進出したアントニオ猪木は早い段階からセミリタイア状態で、ジャイアント馬場に関してはご存知の通り、彼らが去った所でリング上の景色はさほど変わりはしない。


なんの影響も無い筈だったのだが …


この主軸を失ったプロレス界に更に追討ちを掛けるような黒船の来航。


これを期に日本のプロレス界は、徐々にその歯車を狂いわせていく。


以下、前々回のブログを参照。
(参照 オトシマエ)












1993年 11月12日 コロラド州デンバー
「われわれグレイシー一族にとってマサヒコ・キムラは特別な存在です」


Destiny
「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接する事が出来る男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村。彼のことは特別に尊敬しています」


兄カルロス・グレイシーに柔術の手解きを受けたエリオは、自身の格闘技のルーツであるコンデ・コマこと前田光世に関しては朧気な記憶しかないという。


あの日エリオは、木村政彦に幼き日に見たコンデ・コマの姿を投影していたのかもしれない。




1999年 あの屈辱を誇りにまで昇華させた男は、自らの格闘技のルーツである日本の地を目指す。

(参照  巨人 ⑪ 国士無双)









1951
10月23日 マラカナン・スタジア厶
木村政彦vs.エリオ・グレイシー

10月28日 旧両国国技館メモリアルホール
力道山vs.ボビー・ブランズ


力道山が日本の地でプロレスデビューを飾るのは、木村政彦がこの激戦を制した僅か5日後のこと。





90年代 プロレスの黄金期にその姿を現し …
00年代 まるで底なし沼のような暗黒期に追い込んで行った総合格闘技。
(参照 シリーズ 狂気)






プロレスがこの地に芽生えたとき、既に地球の裏側にはあの惨劇の種が植えられていた。