加納有輝彦さんのブログから転載

邪悪なるものが自由に武力行使を許され、善なるものが一切の武力行使を許されていないとするなら、すでにそれは隷従への道を歩いているという事ではないのだろうか?
一切の戦争を否定するなら、邪悪な国の奴隷になる可能性について国民的コンセンサスを得ておく必要がある。
我々は、命さえ保証されるのなら奴隷となってもかまわないと。
信仰の自由を失い、自らの体を燃やし、命に代えてでも国際社会に邪悪なる国の圧政の非を告発する若きチベット僧が後をたたないのを、我が国の一切の武力行使を否定する人々はどう説明するのだろうか?
日本人だったら奴隷的生存に甘んじるとでもいうのだろうか?
いや邪悪な国は、絶対に日本を攻める事はないというのだろうか?
世界で日本だけが戦争を起こす邪悪な国だから、一切の武力行使を禁じられているのだろうか?
平和を愛するチベットの人々は言う。このように自由を奪われる事が分かっていたのなら我々は武器を持って立ち上がったであろう。と。もはや遅すぎたと。国を失ってからでは遅すぎると。
我々に残された時間はそう多くはない。
以上