昨夜、急遽ライブの出演が決まったのだが、初見の曲ばかりな上に直前までセトリも決まらずテンパる夢を見た。焦った。夢でよかった。

 

こういうプレッシャー系の夢はちょっと久しぶりに見た。舞台でセリフが飛ぶとか、大学を卒業できないとか。

夢見は悪かったが、いつどんなチャンスが来てもいいように、ナマクラは日頃から備えておけと戒められたようで、身の引き締まる思いで二度寝した。

 

 

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そんなナマクラは3月某日、中平卓馬 火―氾濫@東京国立近代美術館に行きました。

 

日本の戦後写真を代表する写真家、中平卓馬の約20年ぶりとなる大回顧展。

その実作と理論を、初期から晩年までの作品・資料およそ400点と共にたどる展覧会です。

 

平日午後だったが来場者はわりに多く、客層が幅広いのも印象的でした。

 

 

 

感想は、ヤバかった。

中平の作品をこれだけまとめて見るのは初めてで(特に初期作)、心の中で終始「ヤバい」を連呼していた。あまり驚くと語彙力が平成JKに回帰しがち。

 

 

「写真・1970(4):風景2」『デザイン』132号 1970年4月 美術出版社 1970 個人蔵

 

「もうひとつの国(26):都市Ⅱ」『朝日ジャーナル』1972年2月11日号、「もうひとつの国(31):都市Ⅲ」『朝日ジャーナル』 1972年12月17日号 朝日新聞社 個人蔵

 

ギラギラに鋭い眼光、キレキレに隙のない写真。

ただの壁が官能的に、ただの水溜まりが刃物のように鋭利に見えてくる。

その写真を覗く時、写真もまたこちらを覗いているというより、睨み返されているようだ。ヤバい。(しかしモニターだと全然伝わらないね!)

 

 

「日本の生態(10):終電車」『アサヒカメラ』 1968年10月号 朝日新聞社 1968 個人蔵


揺れる車内であえてF5.6、SS1/30で撮影。初の写真雑誌掲載にして、既存の写真の常識に挑む。

 

1960年代半ば、雑誌編集者だった中平は、東松照明の提案から写真家へと転身。
 

「アレ・ブレ・ボケ」と称された粒子の荒いピンボケやブレで不鮮明な作風は、既存の写真美学へのアンチテーゼであり、激動する「異議申し立て」の時代における世界の不確かさをリアルに写し出して、大きな反響を呼んだ。

 

 

柚木明名義「パレード」『現代の眼』1964年12月号 現代評論社 1964 個人蔵


初の発表作。黒々とした地平線の向こう、朧げに佇む辻堂団地(神奈川県藤沢市)。中平の写真を見た東松がグラビア企画に掲載を決定した。

 

 

『Provoke』1号 1968年11月、2号 1969年3月、3号 1969年8月 プロヴォーク社 東京国立近代美術館蔵ほか


中平らによる伝説的同人誌。60年代末「政治の季節」の社会状況を背景に、写真とエッセイ、詩で構成。短命に終わるも、当時の写真ジャーナリズムや批評に多大な影響を与えた。

 

 

「幻想と怪奇 その3:犬の世界」 『アサヒグラフ』1969年9月26日号 朝日新聞社 1969 個人像


誌面に掲載された様子も多く紹介されていて、ページをめくった際の写真並びも感じられ興味深かった。そも雑誌の展示が多いのは、作家自ら初期作の多くを廃棄してしまったからでもあるよう。

 

挑発的な反写真であった「アレ・ブレ・ボケ」はしかし、皮肉にも流行の意匠として商業広告にまで使われるなど、たちまちに通俗化し、消費されていく。

 

そんな折、高度経済成長下で均質化した日本の風景に権力の影を見る「風景論」に連動して、中平は写真にとっての「風景」を模索。

やがて風景を構成する物質、事物そのものを捉えることに関心が向かっていく。

 

「サーキュレーションー日付、場所、行為」1971(2012年にプリント)東京国立近代美術館


第7回パリ青年ビエンナーレ出品作。風景論への取り組みのひとつとして、パフォーマティブな作品も行っていて興味深かった。現地で撮影した写真をその日のうちに展示し、「風景」の背後にある制度を撹乱する試み。

 
 

そして1973年に評論集『なぜ、植物図鑑か』を発表、それまでの自らの写真を否定する。

 

写真から詩性や情緒性を排し、図鑑のように即物的に「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」ものでなければならないと主張した。*1

 

「もうひとつの国(3):植物図鑑」『朝日ジャーナル』1971年8月20/27日合併号 朝日新聞社 1971

 

しかし、図鑑のようにあるがままの世界と向き合う客観的視点を目指していた最中、中平は急性アルコール中毒で昏睡状態に陥る。

 

記憶や言語に障害を残しながらも、やがて写真家として再起すると、90年代以降は、望遠レンズで迫った世界の断片をタテ位置で切り取るカラー写真へと到達した。

 


初期作から、ヤバい!これもヤバい!と見てきて最終章、おおっ…おお?となった空間。

 

図鑑というよりも、なんだか子供が目の向くままに携帯で撮ったような写真が並ぶ。それこそが「植物図鑑」なのか。

 

「写真は本来、無名の眼が世界から引きちぎった断片であるべきだ」と、パネル貼りさえ拒んだという中平。ここが、そこなのだろうか。

 

「無題(八戸)」2005 (2023にプリント)中平元氏蔵

 

だけどそうだ、私が初めて出会った中平卓馬の写真は、むしろこれだった。

こうしたカラー作品数点を目にし、あまりにそのままで、妙に記憶に焼きついたのが最初だった。

だから、のちにキレッキレの初期作を知って逆衝撃を受けたのだった。

そしてまた一周して、ここに衝撃を受けている。ヤバいカメラもいもい

 


 

なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫) [ 中平卓馬 ]

 

中平卓馬 火―氾濫
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会期:2024.2.6–4.7
会場:東京国立近代美術館
料金:一般1500円
WEB


日本の写真を変えた、伝説的写真家 約20年ぶりの大回顧展
日本の戦後写真における転換期となった1960 年代末から70 年代半ばにかけて、実作と理論の両面において大きな足跡を記した写真家である中平卓馬(1938-2015)。その存在は森山大道や篠山紀信ら同時代の写真家を大いに刺激し、またホンマタカシら後続の世代にも多大な影響を与えてきました。1960 年代末『PROVOKE』誌などに発表した「アレ・ブレ・ボケ」の強烈なイメージや、1973 年の評論集『なぜ、植物図鑑か』での自己批判と方向転換の宣言、そして1977 年の昏倒・記憶喪失とそこからの再起など、中平のキャリアは劇的なエピソードによって彩られています。しかしそれらは中平の存在感を際立たせる一方で、中平像を固定し、その仕事の詳細を見えにくくするものでもありました。 本展では、あらためて中平の仕事をていねいにたどり、その展開を再検証するとともに、特に、1975 年頃から試みられ、1977 年に病で中断を余儀なくされることとなった模索の時期の仕事に焦点を当て、再起後の仕事の位置づけについてもあらためて検討します。 2015 年に中平が死去して以降も、その仕事への関心は国内外で高まり続けてきました。本展は、初期から晩年まで約400 点の作品・資料から、今日もなお看過できない問いを投げかける、中平の写真をめぐる思考と実践の軌跡をたどる待望の展覧会です。

*1:写真が「“私”によって撮影される限り、私の興味関心を反映してしまう」ことについて。植物図鑑宣言以降、写真家としてスランプに陥ったとされるくだりから、絶対的な抽象を求めて絵画が消滅する袋小路に陥ったマレーヴィチをふと思い出した。森山大道が同様の“スランプ”から抜け出してどのように次の境地へ向かったか。ものが存在するということ、私という枠組みについての曖昧さを問うた大辻清司は。写真家である「私」の意識を超えた無意識、そこで生まれる奇妙さを探究した「大辻清司実験室」、即物的なカメラアイと産地レポを組み合わせた「文房四宝」など。70年代と、記録をするものとしてのカメラの構え方について。