3月某日、『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本@板橋区立美術館に行きました。

 

 

戦間期フランスで誕生した芸術運動、シュルレアリスム

のちの抽象表現主義の成立にも大きな影響を与えたその前衛芸術は日本にも届き、全国各地で展開した。

 

先駆者たちによって導入された黎明期から、展開・拡張して迎えた最盛期、そして戦中の弾圧から混沌の戦後へと、シュルレアリスムという前衛表現によって激動の時代と対峙してきた画家たちの軌跡をたどる展覧会です。

 

京都文化博物館からの巡回展、4月27日からは三重県立美術館に巡回。

 

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展覧会チラシより

 

西洋の美術運動が日本ではどのように広まり、それはどのような時代であったかということにこの頃は関心があるから、本展も楽しみでした。

 

実際に見ていると、あ面白くなってきた!と感じた展示室がまさに円熟期の作品を紹介する章で、その最中に軍事体制の本格化による前衛芸術への弾圧が強まっていく様子はズシンと重かったです。

 

会場ではミニガイドもいただきました
 

 

日本のシュルレアリスムを牽引する福沢一郎瀧口修造が拘束された事件、その様子を伝える吉井忠らの緊迫した手記。

統制組織が美術界内にも結成され、自由表現は困難になり「発表しないか、許容範囲で作るか」に追い込まれていく作家たち。

 

それから、若くして戦死した画家たちが少なくないこと。

西洋でもやはり大戦で亡くなった画家たちや弾圧を受けた表現があって、こうして20世紀前衛美術をまとめて見る機会があるたび、色々な思いが巡ります。そう遠くない時代だから、不穏な現代だから、尚更に。

 

 

…などなど、掲載できる画像がないので簡単に、諸々は下記に自分用メモとします。

 

 
 
 
美術館そばのヤギちゃん。前日の雨で泥んこになってた。
 

 

とても人懐こくて近寄ってくるやぎ座もいもい
 
 

 

 

 


 

『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本 [ 速水豊 弘中智子 清水智世 ]

 

『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本
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会期:2024.3.2.土〜4.14.日
会場:板橋区立美術館
料金:一般650円
WEB


1924年、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表して100年。フランスで誕生し詩や思想、絵画に多大な影響を及ぼした芸術運動は、当時の日本の画家たちを魅了しました。1920年代後半からシュルレアリスムを先駆的に試みたのは古賀春江や東郷青児、福沢一郎をはじめとする人々でした。1930年代には若い画家や画学生たちがエルンストやダリの作品の影響を受け、表現の幅を広げます。さらに靉光、北脇昇らによる日本のシュルレアリスムを象徴する作品が描かれました。しかし、戦時中にシュルレアリスムは危険思想として監視の対象となるとともに、戦死する画家も現れ、活動は困難を極めます。それでも戦後、その影響は絶えることはなく、山下菊二をはじめとする画家たちは混迷する社会と向き合いながら、日本特有のシュルレアリスムの作品を生み出したのです。東京のみならず日本各地で展開したシュルレアリスム。戦中、戦後の激動の時代、シュルレアリスムという前衛表現によって時代と対峙した画家たちの軌跡を約120点の作品と資料から検証します。

*もいメモ*

①初期:日本でのシュルレアリスムは、詩の分野から始まり絵画へと伝わった。1929年、東郷青児や阿部金剛、古賀春江などがシュルレアリスム的な絵画を二科展で発表。本格的な導入は福沢一郎によるシュルレアリスムの紹介より。

遊学したパリでエルンストらに影響を受けた福沢、1931年独立美術協会展で発表した滞欧作が日本の美術界に衝撃を与えた。帰国後は日本にシュルレアリスムを紹介して前衛芸術の主導的立場に。

※東郷や阿部はシュルレアリスムを主張したわけではなかった。福沢も自らをシュルレアリストと名乗ってはいない。北脇昇もシュルレアリスムそのものを求めたというよりは、それに通じる思想や技法を取り入れながら独自の境地に至る。日本のシュルレアリスムは「思想的に組み立てられた運動ではなく、画家たちは個々の関心や思考に根差して自分なりの表現を模索した(弘中智子学芸員)」。やがてシュルレアリスムに起因する批判精神や独自の発想は戦後へと受け継がれていく。

②衝撃から展開へ:1932年、巴里新興美術展覧会が全国7ヶ所で開催。学生ら——当時、複数の画塾や美学校が設立され増加していた——に衝撃を与える。その頃、福沢一郎を中心に、シュルレアリスムの画家が増加。飾画/新造形美術教会などの初期シュルレアリスムのグループが生まれる。【24:六篠篤《らんぷの中の家族》1933/25:斉藤長三《わが旅への誘い》1935/29:瑛九《眠りの理由》1936 フォトデッサン(切り抜いた紙や曲げた針金など用いた)】

③拡張するシュルレアリスム:1930s半ばより、複数の美術グループ(JAN、アニマ、表現、動向、貌、デザミなど)が活動。1937〜高揚するシュルレアリスム、若い画家の間でダリ風の絵画広まる(地平線、平地、奇妙な物体、生物、写実的、ダブルイメージなど)。時代や社会の不安、個人の内面を象徴的に表す。福沢が「シュルレアリスム」刊行。山中散生と瀧口修造が企画「海外超現実主義作品展」。日中戦争。【32:伊東久三郎《振子》1937 映像で見たい感じレモンのような振り子/43:山路商《犬とかたつむり》1937/56-57:麻生三郎《形態A》《形態B》ルドンのような色、内臓のような形/59:杉全直《跛行》1938 ダリに影響受けた杉、浜田浜雄、土屋幸夫ほか】

④最盛期から弾圧まで:1938〜 西洋の影響を離れて円熟していく日本のシュルレアリスム。1939に美術文化協会が結成されるも、前衛芸術への監視厳しくなり瀧口と福沢拘束事件。シュルレアリスム作品は廃棄され、会の存続に奔走。「

この事件ののち、美術文化協会は翼賛的な事業を積極的に行なうようになってゆく(artscape)」👉日本美術及工芸統制協会・日本美術報国会「国防国家と美術 ―画家は何をなすべきか―」座談会【65:浅原清隆《多感な地上》1939 戦死/66:伊藤研之《音階》1939/67:桂ゆき《土》1939/60:靉光《眼のある風景》1938岩のような内臓のような肉塊のような/87:矢崎博信《時雨と猿》ふるさと長野での最後の大作。人のような猿、芭蕉「猿蓑」をチーフに、不穏な空気。マニア、動向で中心メンバーであった矢崎も若くして戦死】

⑤写真のシュルレアリスム:1930s~写真の間でもシュルレアリスム広まる。1937〜1939ピークに。1937 アヴァンギャルド造影集団の結成、1938 前衛写真協会、1939 ナゴヤフォトアヴァンギャルド、ソシエテ・イルフ。

⑥戦後:混乱の中、美術界の活動も復活。目まぐるしい社会変化と戦前に学んだ手法を用いて描く。【102:岡本太郎《憂愁》1947 自身の頭に白い旗。岡本太郎の絵は温度が熱い。戦火とか傷口のジンジンする熱感とか。《傷ましき腕》でブルトンに見出されたことから、戦前フランスのシュルレアリスム活動に唯一参加した日本人。1940年に帰国も作品は全て焼失/109:白木正一《追憶》1952/112:浜田知明《人》1951浜田もダリに影響//115:小山田二郎《手》1950代後期 ミギー /110:堀田操《断章》1953 福沢絵画研究所で学んだ。同研究所は41年に検挙により閉鎖】