(はじめに)

11月11日、東日本大震災から8ヶ月の月日が経ちました。

冬を目の前にして、未だ先行きの見えぬ復興や原発の行く末に、苛立ちや不安を隠しきれませんが、 

今日は私が経験した阪神淡路大震災での経験をここに記載しておこうと思います。


かなり前になりますが、書きとどめておいた文章をここに転記して記憶に残しておきたいと思います。

この文章の中の一部は理論を用いて分析し、論文として発表しています。

最初にお断りしますが、これはあくまでも 後方支援病院で勤務した看護師の視点からの記載です。

辛い思い出のある方は、読むか否か、ご自身の判断でお願いします。

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【No.1】地震発生

1995年1月17日の早朝5時46分、大阪市内の古い看護師寮で偶然目覚めた私は、今までに聞いたことの無い、深い地の底から響いてくるような地鳴りを耳にしました。

その直後に大きな長い揺れを感じました。

これが6400名余りの犠牲者を出した、阪神・淡路大震災(M7.2)の揺れであるとは知るよしもありませんでした。

すぐにガスの元栓が閉じているかを確認してTVを付けましたが、何の情報も出て来ません。 

しばらくして関西地域に地震が起こったという放送があったけれど、詳細が何もわからないままでした。

私の部屋は大阪市内にも関わらず、酷い損傷を受けました。部屋のものは落ちたり倒れたり。洗面台は2つに大きく割れてしまって、天井はど真ん中に縦に筋が入ってしまいました。

 しかし当時は救命救急センターに勤務していたこともあって、病院も大変なことになっているかも知れないと思い、交通機関が全てストップするなか、自転車で50分かけて職場に駆けつけました。

職場の状況は思ったより落ち着いていました。スタッフは私を見て、みな一様に「どうやって来たの?」と驚いた顔をしていました。

そのうち沢山の負傷者が運ばれてくるかも知れないということで、病院ではすぐに状態の安定している患者に事情を説明して転院してもらい、救命救急センターやICUなどの重症病棟の患者は全て一般病棟へ転棟し、患者搬送の連絡を待つこととなりました。


昼休みに休憩室に入った私は、TVに映し出されている映像に目を疑いました。
まるで空襲にあった町のような映像が映し出されていました。 

「神戸が燃えてるのよ。」と、上司が言いました。足が震えました。そして、これはただ事ではないと、恐怖心でいっぱいになりました。 

しかし、待てど暮らせど近所の住人が3名ほど軽症で手当てを受けに来た以外は、

何の確かな連絡もないまま、現地の詳細な情報もわからず、ただただ受け入れ準備が整っているか、確認を続けました。

 午後5時40分、大阪市消防局の救急車が市立芦屋病院から患者を搬送してきて、そこに添乗していた医師による情報から初めて被害の莫大さが明確になりました。

 それにより、病院側は行政の要請を待たずに搬入してきた救急車に医師を同乗させて現地へ出動し、そこからピストン搬送が始まりました。

‘これから一気に被災地の人が運ばれてくるかも知れないな’

そう思った時、災害を経験するのは初めてだった私は、また不安になりました。

「次に大きな余震が来た時、どうしたらいいですか?」と思わず主任に尋ねました。

主任は「そんなの、来てみないとわからないでしょ!」と即答。誰もが緊張感で一杯でした。 

 その日は深夜帯も勤務だったのですが、余震のため殆ど仮眠がとれず、ろくに休憩をしないまま病棟に戻りました。交替時間の頃にはもう救急外来は次々と運ばれる被災者の方の対応でパニック状態になっていました。

倒壊した家屋から救出された被災者は、全身真っ黒に汚れ、氏名も言えない状態の人が多く、足の裏にマジックで番号が記入されていました。

 確か1月24日の昼頃、ホワイトボードには、120(入院93)名と記入されていたのを記憶していますが、1月18日の時点で院内は満床状態となっていました。

1人でも多くの被災者を受け入れるため、救命センターのECUもベッドを端に寄せて非常用の人工呼吸器をセッティングして、増床しました。

カーテンをそっと開けて窓の外を見ると、真っ暗ななかにたくさんの救急車が病院を取り囲むように列を成している灯りが見えました。一台過ぎるとまた一台…と、その列に終わりは見えませんでした。その時の光景は、今も瞳の奥に焼き付いて離れなません。 

 待合や廊下は次第に負傷した被災者の家族の方々であふれ返り、みな一様に凍りついたような表情をして震えていました。

家族の多くも自宅を失った被災者であったため、その数は増え続けたのです。

このとき私は見るに堪えず、自分の判断で病棟内に保管してある毛布を家族の人たちに配布しましたた。

その後管理の師長に「病院の私物です!すぐ回収するように!」と叱られたましたが、TV局が取材に来るという連絡があった途端、今度は「早く配りなさい!」と怒鳴られ、思い切り睨み返したのを覚えています。

病院の私物って何だ?今は何十年に一度の災害が来て、公立病院であり、後方支援の拠点となっているこの病院は、被災者全ての方々の救護・支援に当たらなければいけないんじゃないのか?

しかし、腹を立てている暇はありません。

家族の人達を暖かい部屋へ誘導して毛布を配ると、すぐにもう一度救命センターの方へ走って行きました。

救急外来では応援に来た看護部の師長達がスタッフの仕事の邪魔になってテンヤワンヤしていました。

物の位置が分からないので、いちいち呼び止めるのです。そして、他にも何人も受け持ちを持っている看護師に自分の受け持ちの準備を命令するのです。またディスポ製品とそうでないものの見分けがつかず、貴重な器具をポンポンゴミ箱に捨ててしまう。これには救急外来のスタッフの堪忍袋の緒が切れて普段なら上司に逆らわないような子が、「もう解らないなら触らないでください!」と怒っていました。

初めての後方支援の経験で、みんな緊張し、完全にキャパシティを超える受け持ちを担当しながらも、必死で救命しようと一晩中走り回って頑張りました。

私は病棟リーダーでしたが、ECU(救急集中治療室)を担当していたので、救急外来を手伝ったり、ECUの患者を見たりと全体の様子を把握しながら看護にあたりました。

朝の5時頃になると、後輩の一人が「もう無理です!」と机の上にうずくまりましたが、「バカ!今やらないでどうすんの!」と叱ってベッドに向かわせました。

彼も精一杯だったのは解りますが、この病院へはいわゆる『黄色札』と現地で判定された人達が搬送されてきたため、何としても助けたい思いで一杯でした。

 悪夢のような一夜を超えて、翌日の昼頃まで私は他のスタッフとともに無我夢中で働きました。

人生で初めての経験に大きな戸惑いを感じながらも、ただ走り回る以外ありませんでした。

 精神的にも落ち着かないまま、次の日また準夜勤務のために出勤すると、昨夜搬送された人達は、みな一様にクラッシュシンドロームによる腎不全を起こしており、人工呼吸器と透析の機械がフル回転し、病棟内は更に騒然とした状況になっていました。

 師長は震災発生直後から病院に駆けつけ、幼い娘2人を残して自宅へ帰らないまま夜も眠らずに指揮を執り続けていました。

 通常なら高熱や盲腸で短期入院する患者もいる救命センターが、全員重症または重体の患者で満床となっていました。

救命センターの病室では、いつもは患者の意識レベルの回復を願ってラジオを流しているのですが、

被災者の方が地震の情報を耳にして不安になるのを避けるために、穏やかなクラッシックが不自然に流されていました。

震災から少し経過した頃のECUにて。

救急医療ジャーナル JUNE 1995 Vol.3