B章;新規加筆>人類史に於る日本人、ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥 | フリーエージェント世界革命を提唱するフリーエージェント大学ロシアの有名人・ドクター佐野千遥教授

フリーエージェント世界革命を提唱するフリーエージェント大学ロシアの有名人・ドクター佐野千遥教授

資本主義主力の株式会社制をも覆す、貴方を悩みと賃金奴隷状態から解放するフリ-エージェント世界革命を、誤った現行全自然社会人文科学を根底的体系的に批判し、一枚岩無矛盾の全新厳密科学体系を創り出した(世界史上これに挑んだ他者無し)FA大学佐野千遥教授が領導する

B 大幅加筆>人類史に於る日本人、ユダヤ人の位置を言語科学から解明する!スミルノフ学派Dr佐野千遥

ロシア科学アカデミー・スミルノフ物理学派論文審査員:ドクター佐野千遥

<本ブログB章はもう一つの別のブログA章と合わせて初めて全一体の体系を成しますので、本B章を読まれた方は、A章も合わせてお読み下さい。アメブロの字数制限の為、一つのブログを2つに分けざるを得ません。>



アーリア人のヒマラヤ山脈の西のカイバル峠越境についてはもう一つ述べておきたい点が有る。

アーリア人は果たして全員カイバル峠を越えたのであろうか?という疑問である。

答は「いや、全員は越えなかった。」である。越えなかったアーリアは東へ進んで新疆ウイグル人に混血した。その結果、ウイグル人とはムー大陸系黄色人種のトルコ語族に所属しているにも拘わらず、ウイグル人には「青い目」で「金髪」のウイグル人が居り、これを指して中国人は古代から「色目人(しきもくじん)」と呼んでいた。

カイバル峠を越えなかったアーリア人は更に東に進んで、日本まで遣って来た。
大江山の酒呑童子(しゅてん・どうじ)とはSchulzen Deutsch(シュルツェン・ドイッチ)という名のドイツ人であった可能性が高い。明らかに鬼の面、天狗の面はヨーロッパ人男性の顔であり、般若の面はヨーロッパ人女性の顔(嫉妬の顔)である。

古代ローマ都市国家と秦(紀元前771年~206年)・漢帝国との間にシルクロードによる交易が始まったのは、どんなに遡っても紀元前771年以前ではないのだから、紀元前1500年~紀元後794年に始まる平安時代のあの大昔の全時期に渡って、ヨーロッパ人が中央アジアの高い山脈地帯を通って極東まで大挙して遣って来ることは、あのカイバル峠をアーリアが大挙して越境した出来事の時点以外、先ず有り得なかった。酒呑童子の居た平安時代から鎌倉時代に掛けて、大江山には朝廷に歯向かう数百名の鬼=ヨーロッパ人の反乱部隊が存在した。

<ユダヤ人のハザール(アシュケナジー)とセファルディ(シファラディ)について>

ユダヤ教から離れた黄色人種セム族はケルト族としてヨーロッパの各地に散った。ヨーロッパに居る為に自分達は実はセムであることを口外し難いが、ケルト人とは実はそのケルト語の文法構造を見ると明らかにセムである。

このようにドイツ語とほぼ同じイディッシュ語を話すハザールは、純粋なヨーロッパ系白人ドイツ人ではない事を良く認識すべきである。そして“人種的にはセファルディのようには正統派ユダヤ人ではないハザールは悪い似非ユダヤ人であり、ハザール=アシュケナジーはユダヤ人ではない!”という論も展開されるので、その粗雑な論に注意を促したい。

勿論ユダヤ教の最有力な一派(ラビ派)によって聖典の一つのモーゼの口頭伝承を書に表したと主張されるタルムード自体がその後のイルミナティ創始者バイスハウプトの“25箇条”、社会悪体系社会の実現戦略を述べたシオンの議定書、シオニストの基礎に有る事から、タルムード批判、ユダヤ教批判は正しいのではあるが、ハザールはその信仰するユダヤ教が原因で18世紀、19世紀、20世紀初頭、スターリンによる大量粛清時にかけて東欧で幾度となくポグロム(ユダヤ人集団虐殺)[註]の目に会っている事も忘れてはならない。つまりハザールはポグロムに於いては、歴としたユダヤ人として殺されているのである。だから“ハザールはユダヤ人ではない。”とは言えないのである。つまり“ユダヤ人”とは基本的にユダヤ教を実践する民族と定義される。ジンギスカンの末裔でユダヤ教に改宗された民族も人種的にはユダヤ人ではないがユダヤ人の中に数えられるのである。

[註]:反ユダヤ主義を理論化したのは、歴代のカトリック・ローマ教皇である。ユダヤ人選民思想とゴイム=非ユダヤ教徒なら殺そうが強姦しようが奴隷に仕様が悪い事では無いと主張するタルムードを信奉するラビ派が主流のユダヤ教を批判したのは正に正当であった。
“1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルチン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。”(wiki)ルッターの主張は選民思想を基にユダヤ教徒個人の悪を推奨するタルムードを聖典とするラビ派が主流派のユダヤ教に対し、或る意味で正当ではあったのだが、歴史の皮肉はこれが実際、東欧に於けるユダヤ人(ハザール)集団殺害=ポグロムを引き起こす事と成った。

他方、マルチン・ルッターとは彼のプロテスタンティズムの“教え”に感銘を受け、命を賭けてドイツ農民戦争を指導し、敗れ、捕えられて火刑に処せられたトマス・ミュンツァーに対し、“自分とは関係ない!”と言い放った男である。

[註2]:紀元前13世紀のモーゼの十戒以来、最近まで2300年に渡り門外不出であったユダヤ教のタルムード(戒律)の内容とは
“・ただユダヤ人だけが人類である(ただ汝のみ人として選ばれたり
・異邦人の子供は動物である
・異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある
・異邦人に律法(この場合はタルムード)を教える事は禁じられている
・他の民の資産はなべてユダヤの民に属し、必然的にいかなる良心の咎めもなく占有する権利がある
・神はユダヤ人にすべての方法を用い、詐欺、強力、高利貸、窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる
・もしユダヤ人が異邦人の落とし物を見つけた場合、返す必要はない
・法廷においてユダヤ人が異邦人を騙す事は差し支えない
・ユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い
・ユダヤ人が ゴイの土地に鍬を入れれば、その土地全部の所有者となったのである
・もし異邦人がユダヤ人を蹴ったら、彼は殺されなければならない。ユダヤ人を蹴ることは神を蹴ることと同じである
・すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を屠ることを許さる“
(http://plaza.rakuten.co.jp/555yj/diary/201309270000/ より引用)
といった物である。お分かりになりますか?歴史上、何故「反ユダヤ主義」という思想が発生したかを?!これがユダヤ教の教理の内容である事は、従来門外不出であった。というのは、ユダヤ教徒でタルムードの内容を異教徒に開示するユダヤ教徒は石殺しの刑に処されると、ユダヤ教には規定して有るからであった。
そしてキリスト自身がタルムードを批判している。
“マタイ15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」 ”
( http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/talmu.html より引用)

[註3]:このユダヤ教のタルムードが選民思想に基づき異教徒をヒトと見ず、異教徒を奴隷化する事、強姦する事、殺す事は何の罪に問われない、とする個人の悪の極限を追求する思想と、優るとも劣らぬ、中国の夏夷思想を見てみよう。
( https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/p223-259.pdf 参照)

他民族を非人として奴隷化・殺戮する夏夷思想

而も、ユダヤ教のタルムードは小国ユダヤの国が宗教的イデーとしてのみ、その選民思想を主張するに留まったのに対し(勿論それは経済に於けるカネを梃子として後に社会悪の体系を全世界の社会に実現する為の世界戦略であるシオニズムを体現するイルミナティとして全世界を知的に軍事的に支配するに至ったのでは有るが)、他方に於ける中国人の選民思想=夏夷思想には武力を持った非論理的大国中国が実際に周辺弱小民族を人非人と見做し、奴隷化、殺戮を欲しい儘にした恐ろしさが有る。

今日のゲルマン諸語やゲルマンの混ざったラテン語族と比較して、アルタイ語系のトルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]の間には語彙・語根の共通性が殆ど無い事を理由に現代の言語学会では、アルタイ語族の存在を危ういと見る傾向が有るが、この傾向は誤りである。トルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]の文法が85%共通である事自体が語族を形成する重大な事実であって、これ等の民族がクロマニヨンである結果、7万5千年の歴史を持っているのに対し、現生人類のゲルマン民族の使うゲルマン諸語やゲルマンの混ざった今日のラテン系諸語はノアの大洪水4千年程度の歴史しか持たない事がその違いが生じる原因である。つまりアルタイ語族に属する民族間で本ブログの最初に述べた地域間の利害対立が生じて自分達の言葉にパスワード的役割を負わせて利害対立地域の人達には通じなくさせる目的で、数十万年に渡って文法はその侭にして語彙を業と変更した結果、アルタイ語族には語彙・語根の共通性が殆ど無くなったのである。これに対し現生人類のゲルマン民族の使うゲルマン諸語やゲルマンの混ざった今日のラテン系諸語は4千年程度の間、語彙を互いに有る程度変更しても語根は酷似したまま残っているのである。

古代に日本列島に住んでいて今日消滅してしまっているギリヤーク族、コルボックリ族、土蜘蛛族はムー大陸からの黄色人種系のアルタイ語族と考えられ、「海のつわもの」と呼ばれ日本に稲作を伝えた隼人族は台湾の高砂族と同じで又フィリピン原住民とも近い民族でマレー・ポリネシア語族に属する。

人称による動詞活用と名詞・形容詞の格活用を持つインドの原住民ドラヴィダ語族が更に西へ進んで、古代エジプトのハム語族を生んだ。古代エジプト民族の今日に於ける末裔はエチオピア人、ソマリア人である。

冠詞を持たないハム語族は、冠詞を持たないが関係代名詞を持つ古典ラテン語族(SOV)の古代ラテン人とスラブ語族(SVO)を生んだ。

ハム語族(SOV)から人称による動詞活用と名詞・形容詞の格活用と至る所に冠詞を持つセム語族(VSO)[ユダヤ語、アラビヤ語]とギリシャ語族(SOV)[ギリシャ語、アルバニア語、アルメニア語]が発生した。

古代ラテン人とギリシャ人はヨーロッパで発生したのだが、古代ラテン人の中、ルーマニア人だけをヨーロッパに残して、古代ラテン人とギリシャ人は紀元前4万年頃に大西洋に有るアトランティス大陸へと移住した。

紀元前2000年頃に水彗星が地球に衝突してノアの大洪水が起こり、ユーラシア大陸ではセム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、文法の複雑度において退化して発生したのが聖書で言う“ヤテベ”=白人(地球上現在唯一の現生人類のホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族(SVO)[ドイツ人、オーストリア人、アングロ・サクソン人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人]である。

ノアの大洪水が起こって海の水が急に増えてアトランティス大陸の平野部を海が蔽い、その海水の重さでアトランティス大陸全体が沈み(この仕組みでの大陸の沈み込みを地球物理学に於いて提起するのは佐野千遥が初めてである。参考までに述べるとグリーンランドは氷の重さで島の中心部は海抜マイナス300メートルである。)、その地に移住して居住していたギリシャ人と古代ラテン人は海に放り出され、以降長きに渡ってギリシャ人と古代ラテン人は海の民となった。

古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)(SVO)である。

ついでまでに述べると現在地球上に住む全人類の中、蒙古班を持たない人種は現生人類白人(ホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン民族のみである。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する。“ギリシャ人 蒙古班”と入力してGoogle検索をして見て下さい。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する事がお分かりになると思います。

フランス語の場合の、他動詞を否定すると不定冠詞がdeを伴う部分冠詞となる現象は、deとは元々所有格を表す前置詞でも有るのだから、ロシア語に於いて他動詞の目的語の位置に置かれる目的語は、その他動詞が否定されると、その目的語が物であった場合にも生格(所有格)にしなければならない文法規則と相通ずる所が有ると見る事ができる。

このラテン語とスラブ語(ロシア語はその一つ)に共通な否定生格の言語現象は、ハム語(古代エジプト語、その末裔の今日のエチオピア語、ソマリア語)の末裔のセム語(ヘブライ語、アラビヤ語、アラム語)と、その又末裔のゲルマン語(ドイツ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、オランダ語、英語)には無いが、ハム語とその祖先のドラビダ語(御釈迦さんが混血していたインド原住民のタミール語、シンハラ語)にまで遡って共通に存在する言語現象である。

此処から、ドラビダ語族からハム族が発生し、ハム族から直接スラブ族とラテン族が発生し、同じくハム族からセム族が発生し、セム族からゲルマン族が発生した、人類の系統図を垣間見る事ができるのである。

もっと遡るなら、ムー大陸が沈んだ時、南西へ逃げた当初黒人系のドラビダ語族と、北極を通って北へ逃げた白人系ウラル語族と、西へ逃げた黄色人種系アルタイ語族のムー大陸出の全ての語族に共通に名詞の格変化・動詞の活用が有り、ドラビダ語族とウラル語族には共通に人称に基づく動詞活用が存在する(ムー大陸が発祥の地でなく、アフリカ大陸やオーストラリア大陸が発祥の地である全ての語族には名詞の格変化・動詞の活用が存在しない。)。

ムー大陸の白人のウラル語族には、北極を超えず唯一アジアに留まったアイヌ人、バスク人、フィンランド人、エストニア人、グルジア人、チェチェン人、ハンガリア人(=匈奴のアッティラ王は長頭で鼻が根元から非常に高い白人の頭がい骨を有し、ムー大陸系白人である)、そしてハンガリア人が宗教的にユダヤ教に改宗したハザール=アシュケナジー(つまりハザールとはハンガリア人であり、ムー大陸系白人であって、ヨーロッパ系白人ではない。但しハザール=アシュケナジーが使ったイディッシュ語は土着した地のドイツ語にほぼ同じ。ここで確認すべきはハザールとは人種的にヨーロッパ系白人・ゲルマンではなく、ムー大陸系白人のハンガリア人である。)が属し、ムー大陸系黄色人種アルタイ語族にはトルコ系(カザフスタン人、アゼルバイジャン人、キルギスタン人、ウズベキスタン人、新疆ウイグル人)、モンゴル人、ブリヤート人、満州人、新羅人(今日の朝鮮韓国人)、百済人(今日の弥生系日本人)、太古のシュメール人 [註 ]が属し、ムー大陸系黒人ドラビダ語族から派生した古代エジプトのハム族からは、先の段落で解説した諸々の語族・民族が系統的に派生した。

我々が今日喋っているのは百済語である。そして今日の朝鮮韓国語は新羅語である。
平成天皇が何年か前に韓国を訪れた時、「桓武天皇の母親は百済から嫁入りした。」と言った。実際、桓武天皇の時代には百済から遣って来た桓武天皇の母親が百済語を喋っても、宮中がほぼ同じ百済語を喋っていたから、言葉の問題が生じなかったのである。

我々が今日喋っている日本語とは百済語であるのは、日本列島の支配民族が最終的にシュメールを破った天皇一族の百済人(弥生人)となったからである。勿論天皇一族には、破った後呑みこんだセム化(ユダヤ化)したシュメール王朝のユダヤの血と、後に聖徳太子の時代に遣って来た純然たるユダヤ族のハタ一族のユダヤの血が混じっているのであろうが、“日本人が黄色人種セム族・本来のユダヤ人の源流”という仮説は無理であり成り立たないのである。

又、日本人の弥生人が朝鮮と同じ起源と言われる事に抵抗を感じる方々の中に、“日本語はタミール語とそっくりだ。”だとか“日本語はレプチャ語とそっくりだ。”と主張する言語学者達がいらっしゃるが、タミール語とはドラビダ語族であり、アルタイ語の日本語とは文法構造が根本的に異なっており、レプチャ語とはシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属し、文法構造がアルタイ語の日本語とは根本的に異なっており、而もそれに対し日本語と朝鮮韓国語との間には共通語彙は一語も無い(強いて言えば「奈良」=なら=「国家」の一語のみ)が文法的には「てにをは」から形容詞活用、動詞活用まで98%の文法構造の共通性が現存するのだから、それ等の“タミール語が日本語の起源”とか“レプチャ語が日本語の起源”なる主張は、全く無理であり完全な誤りである。

今日のイスラエルの国歌は“東へ東へ東へ東へ行くとエデンの園が有る。”との歌詞を持っているが、これを聴いて日本人は、それは極東の日本の事だろうと考える人が少なからず居るが、実はこれは日本より更に東のムー大陸を意味する。何故なら、セム語は古代エジプトのハム語から派生し、ハム語はインドのドラビダ語から派生し、ドラビダ語族はムー大陸が7万5千年前に火山爆発で沈んだ時にムー大陸から南西に逃げ出した語族だからであり、セム族は遡って元を正せば東の東の東のムー大陸から遣って来たからである。

黄色人種の原型の漢民族中国人は、ムー大陸系ではなく、アフリカの赤道直下の四声を音声学に持つコイサン語族(ホッテントット人、ブッシュマン人)がアジアに来て色素を失い黄色人種となって発生した民族である。

[註];元々日本列島でアイヌと共に平和に集住していたアルタイ語族のシュメール人は、紀元前9000年頃にアイヌのヤップ遺伝子を持って中東へ海路民族大移動をし、メソポタミアの地に人類初のメソポタミヤ文明を開闢した(紀元前9000年)が、セム族に囲まれて支配し支配されてセムと混血し7400年の後にそのアッカド王国が攻め滅ぼされ[註1]、現トルコ領のアナトリア地方に逃げてヒッタイト王国を成した一団と、日本に戻って来た一団に分かれた。日本に戻って来た時、既にセムと混血していたシュメールはアイヌと戦争し、シュメールの最後の王子が日本武尊であり、弥生人=百済人上陸以前の当時の日本列島原住民の支配民族となり、日本全国に神社を創りその総本山はシュメール物部氏[註2]が司った出雲大社であり、日本に戻って来て九州に陣取ったシュメールの当時の本州に於ける拠点はタケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]の名越[ナゴヤ]一族、海のつわもの三浦一族、ヒッタイトの流れを汲む古代製鉄所の有った石巻であった。日本にはこのヒッタイトと同じ石巻の製鉄所が古代から有った為に、青銅器時代が無く、鉄器時代が始まっている。
元々アイヌが持っていたY染色体の特別な形態のYAP遺伝子を持ち歩き、中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在したのがシュメール人である。今日でもアイヌ系の90%がYAP遺伝子を持っており、縄文系日本人が65%持っており、後YAP遺伝子を持っているのは世界でユダヤ人、アラビヤ人のみである。

そもそも、ユダヤ人がユダヤ教をユダヤ教として定義し、ユダヤ王国やイスラエル王国が国としての形態を持つようになったのは、その遥か昔からシュメールがメソポタミアの地を統治し、ノアが生きていた頃の紀元前2000年にノアの大洪水から遡る事1000年の紀元前3000年頃にユダヤ教にとってユダヤ人の租である予言者アブラハムが現れ、紀元前2000年にノアの大洪水が起こってから700年から900年経った後で、紀元前1680年を以ってシュメール王国が滅亡し国としてはメソポタミアの地からはシュメールが消え去った後の紀元前13世紀にモーセがユダヤ教を整え、紀元前11世紀にイスラエル王国、紀元前10世紀にユダヤ王国が建国されたのであるから、ユダヤ族の血の中にシュメールが持ち寄ったYAP遺伝子が持ち込まれており、そうなるとノアの大洪水の丁度その時にヤテベ族がセム族から進化発展したとすると、ヤテベ族=ゲルマン人もシュメールの持ち寄ったYAP遺伝子を持っていなければならなくなるが、実際には今日の一般のゲルマン人がYAP遺伝子を持っていない事実と、ハザールに流れ込んだユダヤ教ヤテベがフン族と混血した時にYAP遺伝子を持っていた事実とから、ヤテベ・ゲルマンの進化発生は正確には紀元前2000年ノアの大洪水より前、そしてシュメールがメソポタミア文明を中東に開闢した紀元前9000年より前でなければならなくなり、セムから発生したヤテベ・ゲルマンの中のユダヤ教を捨てなかったヤテベ・ゲルマンのみがアブラハムより遥か以前から民族を形成していたセムと一緒にシュメールからYAP遺伝子を貰い受けた事と成る。

[註1]:正確に言うと、7320年続いたシュメール文明は、シュメール王国のバビロニア第1王朝が紀元前1680年頃にシュメールの王アビ・エシェフの治世を以って滅亡し(紀元前1680年)、シュメールの一団はチグリス・ユーフラテス川の源流のアナトリア地方まで退却して、ヒッタイト王国を創り(紀元前1680年)、もう一団はシュメール文字で書かれた7320年前の古文書を基に、日本に海路戻った。九州に陣取ったシュメール王朝の最後の王子が日本武尊である。
又、シュメール民族がメソポタミアの地に有った時期に、ノアの大洪水が起こった正確な年号は紀元前2083年である事が、シュメールの歴代の王の治世の年代一覧を見た時、グチアン王朝のシャル・カリ・シャッリ王の治世とイギギ王の治世の間に紀元前2083年から紀元前2050年の間が空位となっている事から推定できる。

[註2]:出雲大社を司ったシュメール系物部氏は後に、高句麗系曽我氏に敗れ滅亡する。高句麗系曽我氏は百済系中大兄の御王子(後の天智天皇)が百済系中臣鎌足(後の藤原氏)と謀って蘇我入鹿を宮中で暗殺した時に滅亡する。奥州平泉の藤原氏は蝦夷地に有るにも拘らず、アイヌでもシュメールでもなく、相当純粋な百済系である事が、今日残っているミイラから推察できる。

7400年間セム族に囲まれて生活した中東から戻って来た殆どセム化したシュメールが取り仕切っていた列島原住民の出雲大社を中心とした旧神道は、百済族の天皇一族が伊勢神宮を中心とした新しい神道へと衣替えした時、神社の裏手にアラハバキ神として祭られて今日に至っているが、この“アラハバキ”とはセム語のアラビヤ語で解釈すると“アラハ”=“アラッハ”=allah=اللهはアラーの神の意味であり、“アバキ”は“アバック”が「奴隷」の意味で、abakを所有格とする為に語尾に[i]を付けてabaki=of slaveの格活用をして「奴隷の」の意味になっている、と解釈できるのである。つまり“アラハバキ”とは「奴隷の神」の意味で有る。

聖徳太子は10人位の人を前にして同時にその10人と会話したとの逸話が有るが、これは実は百済語、高句麗語、シュメールの持って帰ったセム語、新羅語、中国語をマスターしていた聖徳太子が、集まった各国の客人との会話で同時通訳を遣ったと解釈するのが順当であろう。聖徳太子は天皇家(百済人)と高句麗人の曽我氏との混血で、新羅語を使って新羅と和を結び、中国語を使って遣隋使、遣唐使を送り、当時セム化して日本に戻ってきていたシュメール人達から学んだシュメール語=セム語を使って、当時滅亡した後秦から新羅経由で失われたユダヤの十士族の一つが日本に遣って来ていたそのユダヤ人“秦野”=相談役と意志の疎通が自由にできた、と見る事ができる。

太古の昔日本を発った頃のアイヌとの平和共存とは違って、8000年後中東から日本に戻ったシュメール族は、今度はアイヌと戦争してしまうのだが、石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったシュメール人に対して、文字を持たないアイヌ人は、戦術を変更するには司令官たちが一堂に会して合議せねばならない結果、戦闘において個人プレーしか出来ず、戦力に於いて圧倒的に劣っていた。“海の兵(つわもの)”シュメール人の日本武尊は東国を討ちに行くには至る所、敵と出くわす陸路を避け、必ず海路で移動した。三浦半島の突端の走水(はしりみず)の地に、日本武尊の妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に入水して嵐が収まったという神話が残っているのは海の兵(つわもの)三浦一族[註]もシュメールであった事を意味する。つまり日本武尊は東国を征伐しに行くのに東国のシュメールの拠点まで海路行き、そこから上陸して、陸路進軍しアイヌと陸上の合戦を行ったと考えられる。

シュメールが九州を拠点としていた事は、日本武尊が東国の征伐に向かう為、そこから船出をしたと記録が有る宮崎県美々津川の河口の岩場にシュメール文字が刻まれており、また日本武尊が東国征伐に出陣する時に饗宴を開いたとの記録で示される今日の大分県宇佐に有る神社の御物にシュメール文字が刻まれた石板が残っている事からも、推察できる。

[註]:三浦一族の本拠は、今日その城跡が残る衣笠城(横須賀市の衣笠に有る)である。

中東から日本に戻ったシュメール族は九州に陣取っていたが、そこに朝鮮半島から百済族の天皇一族が来襲した。しかし文字を持ったシュメールは文字を当時未だ持っていなかった百済族よりも戦争をする上で優っていた。シュメール側は石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったが、万葉仮名を発明する以前の文字を持たない状態に有った百済族の天皇一族は初戦に敗れ、アイヌが治めている手薄な中国地方の瀬戸内海側を伝って近畿まで逃れ、其処に陣取った。

日本武尊は九州に陣取ったシュメール王国の最後の王子で、最後にシュメール人タケイナダネ王の尾張名古屋[ナゴヤ]から上陸して伊吹山に上り、百済族に挟み撃ちを受けて討ち死にしたが、その先何をしようとしていたかというと、琵琶湖の南岸をかすめて、奈良・京都の百済人の天皇一族を討とうとしていたと考えられる。

日本武尊が討ち死にして、九州のシュメール王朝も近畿の百済族の天皇一族に攻め滅ぼされ、家系として百済族の天皇一族に呑み込まれる事と成る。ここに天皇一族にシュメールを通してユダヤの血が混じった経緯が有る。あるいはその後、聖徳太子の時代に新羅経由で日本に遣って来たユダヤの失われた10氏族の一つの“秦氏”が、日本全国の神社を伊勢神宮系として再編成した際に、日本各地に伊勢神宮系神社擁立の為派遣された分けであるが、そのユダヤ人秦氏がその時期に直接天皇家に血族的に関係したかもしれない。

三浦一族は、日本武尊が伊吹山で戦死した時に同時に百済族に攻め滅ぼされたシュメールのタケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]から、名越[ナゴヤ]一族が海路逃げて、三浦半島の海のつわもの三浦一族の所に助けを求めて来たので、三浦は名越一族に鎌倉と逗子の境目に領地を与え、名越[ナゴヤ]一族はそこに“名越[ナゴエ]の館”を構えた。 

この名越一族は、後に三浦一族が源頼朝を、ぶっちがいになった岩の間を人一人だけ通れる名越切通し、稲村ケ崎切通し、朝比奈切通しによって守られた “陸の要塞”鎌倉に招致して以来、それまで逗子・鎌倉の境目の名越の地に陣取っていた名越一族は、頼朝とその後の執権北条氏に仕えることに成り、特に元々平家方であったにも拘らず石橋山の合戦以来頼朝に支えたが故に頼朝に重用されたが弱小軍勢しか持っていなかった北条氏により重宝がられた。少し時代を遡るが、源平の合戦時に、平家方より源氏方の方が海戦に於いて遥かに勝(まさ)っていたのは、源氏方には“海の兵(つわもの)”シュメールの名越一族、三浦一族が付いていたからである。

元寇を迎え撃ったのは北条時宗と言われるが、実は北条氏は弱小軍勢しか持っていなかったために、元寇の際の日本軍の主力はシュメール・名越[ナゴヤ]一族であった。

そのように元寇に於ける日本軍の主力ともなった程強い軍勢であった名越一族は、しかし、鎌倉幕府末代の北条氏に“後醍醐天皇を討て!”との命を受け、名越高家は足利尊氏を副官として京都に攻め上ったが、楠正成、赤松氏の曲者に敗れ討ち死にし、名越の大軍は雪崩を打って崩壊した。それを見ていて足利尊氏は寝返り、後醍醐天皇と結んで、室町幕府を開いた。

鎌倉では主力軍の名越一族が出払った後、弱小な手勢しか持たなかった執権北条氏の鎌倉幕府は、新田義貞程度の軍勢に稲村ケ崎切通しを超えて襲われただけで、あっけなく滅亡した。

鎌倉時代に養子一人を北条氏から送り込まれて北条氏に取り込まれた名越一族であったが、北条氏の鎌倉時代には日本各地に名越一族から名越越前の守、名越越中の守、名越越後の守、会津の守が送り出され、江戸末期に名越家は会津藩の中枢に有った。

会津藩は幕末に官軍に会津戦争で敗れ、名越一族は北海道に屯田兵として落ち延びたが、その際に未だ乳飲み子であった末子・名越俊六は、屯田兵として北海道の厳しい気候に耐えるには余りに幼過ぎた為に、会津に残った高い位の畑家(日本人の名前で発音が[ハタ][ハタノ]であれば文字に無関係に全てユダヤ)に養子として預けられ成人し、太平洋戦争末期には本土決戦の総責任者・畑俊六元帥となった。

本土決戦総司令官・畑俊六元帥は広島原爆炸裂の際に至近距離の国鉄広島駅構内に居たにも拘らず、殆ど無傷で、直ちに広島現地で救援活動を開始し、約一週間後に昭和天皇に東京に召喚され、玉音放送の直前の御前会議の直前に、3人の元帥のみを集めて昭和天皇は一つの質問をした。“本土決戦をしたなら、勝てるか?”というのが昭和天皇が3人の陸軍元帥に尋ねた質問であった。他の2人の元帥は、“良く戦って見せましょう!”と答えたが、広島原爆まで見て来た畑俊六元帥は“勝てる自信は御座いません。”と答えた。この畑俊六の返答が昭和天皇にとっていよいよ敗戦を認める決断をさせた、と言われる。

この畑俊六元帥はセム化したシュメールの末裔である。

他民族を非人として奴隷化・殺戮する夏夷思想