山戸結希監督作品を観に刈谷日劇に行ってきました(2015.3.14)#YMtoUK | カピバラ日和

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 愛知県の刈谷日劇という映画館は刈谷市内唯一の映画館という触れ込みで、しかも山戸監督の地元であり、かなり前から山戸作品をプッシュしてきた映画館です。昨年の5月には「5つ数えれば君の夢」を一日フル回転させるという狂気のプログラムを組んだことでも記憶に新しく、とにかくヤマトライトの聖地と呼んで差し支えないと思います。
 その時にいろいろと個人的につらいこと(?)もあり、それを語るのは避けるとして、何はともあれ約10か月ぶりに私は刈谷日劇へ赴いたのです。

 この日は刈谷市バスツアーというものがあり、申し込んではいたのですが、抽選を通過すること能わず。夜の舞台挨拶だけは大丈夫でした。

 刈谷日劇では山戸監督の映画作品4本+MVを集中的に回すという、正気の沙汰とは思えないプログラムを敢行しておりまして、せっかくなら全部を観たいところでしたが、山戸監督の舞台挨拶つき「おとぎ話みたい」の裏に、1日1回しかない「5つ数えれば君の夢」がきてしまい、やむなく5つ数えれば~を断念しました。残念。


 まずは「Her Res~出会いをめぐる三分間の試問3本立て~」「あの娘が海辺で踊ってる」 。(各リンクは初見時の感想)
 特に言葉にすることも無いです。とにかく、やられた、という。この時、僕の人生の半分くらいをかっさらっていくような厭なニュースに触れてすごく気が滅入っていて、いっそ愛知に行くのをやめようかと東京駅のホームで逡巡するくらいの精神状態で臨んだにも関わらず、1時間足らずの映像が、その心の闇をすべて剥ぎ取っていってくれた。
 高崎や立誠で観た頃にはまだもってなかった富山優子さんの「僕らの時代」が、今はもう手許にあって、いつでも「CPU」とか「シノバズ」とか聴ける。その環境を手にしてから初めてあの娘~を観て、映画の心への入り方が変わったと思う。富山さんの曲を家で繰り返し聴いているから、初めてあの娘~を観たときより、歌入りの曲が耳に引っ掛かることなく、映像と一緒に心に入ってくるようになった。気がする。
 行ったことも無い熱海の景色が、もはや見飽きた地元のように思えてしまうのが不思議。


 次に「おとぎ話みたい」。はじめて観た時の感想を再掲  
 山戸監督作品では一番好き。
 劇中で高崎さんがへたくそに歌う「Boys don't cry」は、今や私がカラオケで必ず入れる曲になっています。これも、映画に没入できる要素になっている。DAMとJOYで少し違うけど、いちおう両方に入ってます。
 高崎さんと河西さん、そして衝動で新見先生とぶつかるシーンは観ていて本当に目をそむけたくなるほど痛々しくて、スプラッタシーンに等しい。心の傷口から血がだらだら。高崎さんのようなことを自分も感じるし、言うだろうと、観るたびに強く思う。


 そのあとにトークショウがありました。その内容を、備忘録として以下に。
(敬称略)


Q:文章などさまざまな表現方法がある中で映像という手段を選んだのはなぜ?

山戸:言葉の集積より、映像では予期しないことが簡単に表現されたりする。生々しく生成するものをつくりだしたかった。映画研究部に入ったのは、英語の講義で隣になった女の子に「今なら部室がすぐにとれるから」ということで誘われたから。でも、その女の子は法律学科で忙しくて、部活をやめてしまった。そして自分が部長としてやっていかなければならず、大学三年生のときに学内でチラシを配って人を集めた。その時に「あの娘~」を撮って、「これだ」という手触りはあった。私の場合は気持ちがあって行動したのではなく、最初に行動があって、気持ちが後からついてきた


Q:地方都市の刈谷を「おとぎ話みたい」の撮影地として選んだのはなぜ?

山戸:故郷だから選んだわけではないけれど、思い切って懐に飛び込んでみたというところ。東京だとこれだけの人を集めて、制服も手配して、歌わせて、すごく大変で、そこまでして合唱のシーンが作られた映画はちょっと例がない。ラストシーンでは母校の依佐美中学校で、先生と後輩たちに協力してもらって撮った。自分のいた頃の先生は技術の先生一人だけだったけど、学校はすごくバックアップしてくれた。給食の準備の時間も、給食係だけ抜けて他の生徒は残してくれたり。自分のもっているコア(核)に対して真実じゃない映画は撮れないという自覚がある。今回、こうして故郷で映画を撮ってみて、刈谷が好きだったんだな、とわかった。こういう映画を撮らなかったら、ネガティブな意識のままだった。この巨大な田舎の同調意識みたいなものは好きじゃなかったけど、巨大な田舎は家族として応援してくれるんだ、そういう風に感じた。


Q:客が入らなかったころから刈谷日劇では山戸監督作品を5回回しで上映したりしているというが、反応は違ってきているか。

A:人数は2,3倍になっているけれど、ひとりひとりが訴えてくる熱気というか気持ちは変わらない印象。

山戸:どこにいても、見つけてくれる人は必ず見つけてくださる。お客さんが増えてくれているけど、これがクライマックスじゃないので。未来に対して今を位置付けたい。


Q:(「おとぎ話みたい」の高崎しほのセリフで)「キチガイに思われたい」ってあったのは監督の恋愛観?

山戸:自分の恋愛観とは別。「生きている身体の本当」とは別。趣里さんの発している他者性に当て書きしたものです。


 この「生きている身体のほんとう」という表現、山戸語録にいれておきたい。
 これって昨年末のテアトル新宿のトークショウで言っていた「男性の所属物としてではない女性の言葉」なのかな。
 自分の身体の仕草とか物腰とか脳のはたらきとか、確かに表面にある身体的に規定できる、形而下的な特徴のことを指しているんだと思う。山戸監督のいう「その人が発している他者性」というのは、ジョハリの窓に表わされるような無自覚な無意識の一種だと思うんだけど、その「生きている身体のほんとう」=表の顔の影にあるような部分が、例えば「5つ数えれば~」で女子流が演じた役のキャラだったりするわけですね。


Q:ツイッターで山戸監督からすごくお気に入りに登録されるのは?

山戸:手癖?一番最初はリアクションがあることが嬉しくてお気に入りにしていたけど、それが習慣化したような感じ。お気に入りは私の宝箱というか、私からのLucky Starというか。もう二万を超えて見返せなくなってきているけれど。人の感想とか読まない、リアクションしないという映画監督もいるけれど、それってなんで同じ時代に生きてるのかなって。死んだ監督とは交流できないけど、映画が純然な静謐の中で鳴っている同じ時代に生きていて、作り手として、知りたい。自分は大衆娯楽まで行きたい。そのために、その間に何があるのか傷だらけになって探っていきます。


 最後に、山戸監督からのメッセージ。
「私もみなさんも、今生きている人たちがいつか灰になっている未来でも、映画だけは残ってしまう。いつか全部がつながってCOSMOSになって、刈谷日劇でWスクリーンをぶち抜いて上映する日がきますように。」


 この最後のコメントが難しい。
 そのまんまなのかもしれない。
 高崎さんが「もう私は若くないのよ。次の春には屍なの。」というセリフに近いのかもしれない。
 生き急いでいる?
 
 この「Wスクリーンぶち抜き」というのは、何を言ってるんだこのカントクと思ってしまわれる感じだけれど、物理的に壁を抜くというのではなくて、同じ作品を同時に上映するというシネマフリーク用語みたいですね。壁コンクリだと思うけどこれ抜いて内装やり直したら500万くらいはみなきゃいけないと思うよ(適当)


 あと、ちょっと補足しますが、劇中で高崎さんがBoys don't cryを歌うシーン、インタビューで「わざと下手に歌ってもらった」とこたえていた気がします。「下手に聞こえるのはなぜ?」と質問した方も、全作でカラオケが出てきてみな一様に下手だったといっているけれど、「あの娘~」でカラオケの中で歌っている歌は入っていない。「Her Res」の歌唱指導については続報を待たねばなりませんが、上埜さんは本来歌は歌える方なので、これも「演出ですかね?」ととぼけておくべきかと思われます。


 山戸監督の作品に触れると、自分の中の言語体系が揺さぶられるのを感じる。妙に歌詞を書きたくなったり、何事かを記述したくなったりする。「悲しき熱帯」を読んで感じた「哲学者的な文章の運び」らしきものを山戸節のそこここに感じて、それっぽい文章を書きたくなったり。

 というか、そう、作詞!山戸監督は作詞もやってください!「あの娘~」のエンディングは脳天をブチ抜かれる衝撃を受けました。ぜひ。