変態性欲・・・5 | 昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ

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昭和42年生まれの元司法浪人生です。
日々の出来事や過去の来歴を隠すことなく赤裸々に語ります。

※一度削除されてしまったので、怪しい部分を○に変えて編集した。

○の中身は諸氏の想像にお任せする。


改めて言うが、自分は○辱もののや○虐もののエロ本が好きである。


エロ本といっても官能小説が主である。

この2つが好きな人間は変態である。

これは自分も認めている。


ただ、これには理由がある。


前者(○辱もののエロ)が好きな理由は、単にそれ以外のエロが全く受け付けないからである。


官能小説に限って言うと、エロには大きく分けて3パターンある。

まず、①男性優位型(主に○辱もの)、そして②相思相愛型、③女性優位型である。

このなかで、自分は①しか受け付けない。


たとえば②相思相愛ものについては、ズリネタとしては不適である。

というのも、今までの人生で女性と相思相愛を経験したことがないし、今後もエロ本に出てくるような純粋な相思相愛は経験する見込みがない(もちろんホモではないので男ともだが)。

だから全く感情移入できないのだ。


相思相愛もののエロにある典型的なパターンは、自分にとっては非典型過ぎるのだ。


相思相愛ものの王道は、①主人公がヒロインに憧れ→②告白・成功→③トラブル→④セックスという流れである。

しかし、自分にとっては、①から④のどれ一つとっても経験したことがない。

だからどうもピンとこないのである。


また、女子高生ものは好きだが、好きなのは女子高生という外観そのものである。

制服の女子を○辱するシーンなどは垂涎ものである。


しかし、これに教室や部活、学校の描写が加わってくると話は別である。

男子校だったので、女子高生のいる教室や部活などは実際に見たことがないし、想像もできない。

想像できないシーンが出てくると、途端に現実に引き戻されてしまう。

小説を読むのに想像力は必須であるが、まったく経験がないものを想像するのは難しいし、楽しくない。

舞台が1億年後の人類というような、途方もないSFを読んでもイメージがわかないのと同じである。

なので、途端にわからなくなり、一気に萎えてしまう。


したがって、これらのシーンが多数出てくると、同時に右手も止まってしまう。


同じく、女子が学校で主人公に話しかけてくるシーンや、女子と一緒に机を並べて勉強するシーン、隣のクラスの女子が気になって勉強が手につかないシーンなども無理である。

これらのシーンが出てくると、こういう経験をしたくてもできなかった高校時代の怨嗟が蘇り、いてもたってもいられなくなってしまう。

あだち充の「タッチ」が流行ったときも、あのマンガを平静で読んでいられなかった。

男女が普通に下の名前で呼び合っているシーンを見るだけで、胸が張り裂けそうになってしまうからだ。

自分は母以外の女性から下の名前で呼ばれたことがない。

同じく女子を下の名前で呼んだことがない。

これらのシーンは想像しようとすると辛くなるから無理なのである。


さらに言えば、女子があまり話をするシーンも無理である。

女子と会話したことがない自分にとっては、そもそも女性がどんな意図をもって話をするのか、どんな話題を好むのか、まったくわからないのでピンとこない。

だから、女子はひたすら「いやーやめてー」と嫌がっているだけで、会話しないほうが萌える。

いや、萌えるというより、そのほうが助かるのだ。

経験したことないことを無理して想像しなくていい分、感情移入しやすい。


③女性優位型のエロは、②と同じ理由で受け付けることができないが、こっちは②よりさらに受け付けることができない。

そもそも綺麗なお姉さんが手ほどきするなど、10代や20代ならうっすら可能性があったかもしれないが、45の今となっては皆無であり、今後も期待できないだろう。

もちろん大金払えば別だが、それはあくまで金のためにやっているのであって、相手と本気でセックスしたいからやっているのではない。

こういうエロは自分の中ではあまりに非現実すぎて感情移入することができない。


となると、消去法から①しかなくなってしまう。


普通の人からは、自分の好きな○辱もののエロに対して、よく「気持ち悪い」とか「吐き気がする」と言われる。


これに対して、自分は「自分の嗜好なんだからとやかく口出しするな」と反論するつもりは毛頭ない。

むしろ、そういう普通の感覚を持てる人が羨ましくてたまらない。

○辱ものに対して気持ち悪いと思えるということは、それだけ女性と接し、女性の気持ちを分かっているからこそ、そういう感覚になれるのだ。


自分は女性とまったく接したことがないから、どうしても女性を性の対象にしか見ることができない。


これは決して昔からではない。

自分の女性に対する思いは、始めは皆と同じ「憧れ」から始まった。

しかし、女性と接することができない状態が続くと、この憧れの現実味はどんどん薄くなり、だんだん苦しいものになっていった。

そして時を経てさらに同じ状態が続くと、もはや女性と接したいと思ってもそれは無理な願望だからと諦観するようになってしまう。

そしていつしか女性そのものが遠い存在になりすぎて、もはや同じ世界に住んでいるとすら思えなくなってしまう。

こうなると、女性と付き合いたいと思うより、女性をオ○ニーの対象として貶めて鬱憤を晴らしたほうが楽だと思うようになってしまう。

そして、気が付けば、最初の憧れなど、微塵もなくなってしまった。


このように長い長い時間をかけ、自分の女性に対する純粋な憧れは、次第に醜く変質・変容し、気が付くと単なる性の対象へとなれ果ててしまったのである。


昔読んだどこかの神話にこの感覚と似たものがあった。

たしか、どこかの悪魔が瓶に閉じ込められ、瓶の中で悪魔は、「解放してくれたらその者を大金持ちにしてやる」と誓ったが、1000年間、誰も瓶を解放する者は現れなかった。

瓶に閉じ込められ1000年を過ぎると、悪魔は「解放する者が現れたら、何でも願いをかなえてやる」と誓うようになったが、結局もう1000年待っても、解放する者は現れなかった。

そして、2000年を過ぎると、いつしか悪魔は瓶を開ける者が現れたらそいつを殺すと誓うようになった、という話である。

もはや何年も瓶に閉じ込められている自分を落ち着かせるにはそのように考えるしか方法がないのだ。


話のあらすじが多少違うかもしれないが、悪魔のこの感情には共感できる。

初めから○辱ものが好きなのではなく、様々な紆余曲折から、○辱ものしか受け入れることができなったのだ。


したがって、自分は○辱ものしか受け入れることができない。


○辱ものと並んで好きなジャンルとして、○虐ものがある。

○虐とは、女性の陰部を責めるのではなく後ろの穴、○門を責めるエロである。


自分のパソコンに「○ぎゃく」と入れ変換すると、一発で「○虐」と出る。

特に単語辞書していなくても、「○」と「ぎゃく」で判断して一番最初に候補に挙がるのだ。

そのくらい多くの頻度で検索している。


特に結城彩雨先生の作品は好きでは処女作からほぼすべて購入した。

氏の作品は○辱と○虐が常にセットになっており、さらにエロに関係ない余計な描写が少なく、全編エロで散りばめられている。


自分が○虐ものが好きな理由は上で述べた○辱ものが好きな理由のとほとんど同じである。

それしか受け入れられないのだ。


例えるなら小学生がハードなAVを見ても気持ち悪いと思うだけだが、「まいっちんぐまちこ先生」やドラえもんのしずかちゃんの裸を見ればエロを感じるだろう。

小学生はセックスの意味を知らないから、本物の女性が喘いでいるのを見てもなんのことだかよくわからないからである。

一方、まちこ先生やドラえもんは現実的で親しみやすいため、これらはエロいと感じる。


自分もこれに似ていて、陰部を責めるエロに現実味を感じない。

○門を責めるエロが、興奮するのである。


自分が女性の体を唯一知る手段は、昔はエロ本、今はネットである。

エロ本やネットでおそらく何千人もの若い女性の裸を見てきたが、実物はまだ見たことないし、触ったこともない。


だから女性が陰部を触られるとどんな反応を示すのかはディスプレイ越しからしか知らない。

陰部を責められて喘ぐ女性を見ても、なぜ悦んでいるのか、よくわからない。

どうすれば喘ぐのか、陰部はどういう感触なのかもわからない。

したがって、陰部を太いバイブで責められているシーンを見ても、彼女は今気持ちいいのかな?、それとも痛いのかな?はたまた、これは撮影だからヨガっている振りをしているだけかな?とか余計な疑問が湧いてしまう。

そのため、全然興奮できない。


しかし、○門は男性にもついており、触られるとどんな感覚かはなんとなくわかる。

そこは男女共通なので、想像しやすいのだ。


また、女性は一般的に○門を責めると恥ずかしがるので、その恥ずかしいと思う気持ちも、より興奮する材料となる。


だから、陰部より、○門を責めているエロのほうが興奮する。