狭隘な自尊心・・・6 | 昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ

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昭和42年生まれの元司法浪人生です。
日々の出来事や過去の来歴を隠すことなく赤裸々に語ります。

職場で歓送迎会があったそうだ。


今年の3月で大学を卒業し、塾を辞めた講師と、新たに入った研修生の歓送迎会を近くのイタリアン風居酒屋で行ったそうである。


自分は歓送迎会に参加できなかった。

何の連絡も招待もなかったため、参加できなかったのである。


自分が歓送迎会があったことを初めて知ったのは事務員から会費の払い戻しを受けたときである。

塾では給料日にイベントの費用とするため、500円の会費を集めている。

イベントのたびにお金を徴収するのは学生にとっては酷だとの配慮から、財布に余裕のある給料日にお金を徴収しているのだ。


なるほど、この塾はアットホームが売りであり、募集広告にも懇親会があると謳っていた。

アルバイトをしながらサークル気分も味わえるのが謳い文句である。

自分は今までそういったイベントとは無縁の生活を送っていた。

いや、送らざるを得なかった。

イベントに参加したくてもそういうチャンスが皆無だったのだ。


だから、こういうイベントがある組織に参加するということは自分にとっては絶好のチャンスだった。

そこで女子と会話ができるかもしれない。

もしかすると、女子と無縁の生活に終止符を打てるかもしれないと期待をした。

いや、それ以上のことを想像し、期待をしていた。


なのに、自分もイベントに参加できると思い会費を納めたのに、何の連絡もなかった。

もしかすると自分が生活苦にあることを慮って敢えて誘わなかったのかもしれない。

しかし、自分も2月に勤め始めたのだから、この歓送迎会において歓迎される側に入っていいはずである。

この仕事を始めてから初めての歓送迎会なのだ。

生活費に顧慮して歓迎しないという理屈は、いかにもおかしい。

歓迎される地位に立つ必要性と相当性は十分ある。


よしんば時期が外れて歓迎される地位になかったとしても、会費を納めているのだから、少なくともイベントに参加できる権利はあったはずである。

なのに何の連絡もなく、会に欠席した人として扱われるのは背理である。


自分が歓送迎会の参加の張り紙を見落としていたり、または聞き落としがあって参加できなかったのなら自己責任といえよう。


たしかに、お店の名前を聞いて、そんな名前を講師室の会話の中でちらほらあった記憶はある。
しかし、自分に対しては誘いどころか会話すら一切なかったし、張り紙もなかった。

自分に歓送迎会があるのですが、いかがですか?という一言があってもいいのはずなのに、一切なかった。

もしあれば当日でも参加していた。


参加の手続きが何ら保障されず、一方的に欠席扱いとされるのは心外である。

どうせなら自分に知られず、徹底的に隠れてやってほしかった。

終わった後に知らされるなんて、心外を超えて怒り心頭である。


こういうイベントに参加したかったからなおさらだ。


飲み会や合コンなどのイベントには特別な思いがある。

今まで居酒屋に入ったこともないし、飲み会を一度もやったことがない。

テレビドラマでやっているようなコンパには尋常じゃない憧れがある。


飲み会の席で違う自分を出せたかもしれない。

自分の殻を破れたかもしれない。


そういう思いがあるからイベントに参加したいのである。


しかも普段話さない女性講師と一緒に肩を並べて話ができれば一石二鳥である。

何十年も女子と会話していない期間に終止符を打てるのだ。

何より、こういうイベントで自分のイメージアップを図れるチャンスなのだ。


年が離れているのでなかなか話しかけにくかったが、酒の席では器の広い人だと思われたかもしれない。

自分のクールでちょい悪なイメージからクールで素敵な人というイメージに変わったかもしれない。


そう思われたいから、こういうイベントに参加したいのだ。


改めて言うが、イベントに参加できれば薄明りの望みはあった。

仕事での自分の評価についても聞けたかもしれない。

室長に仕事に対するアピールをできたかもしれない。

講師になれるチャンスを掴めたかもしれない。


いや、何より女性講師が自分の隠れた魅力に気が付くかもしれない。

それがきっかけで友達になれるかもしれない。

彼女ができるかもしれない。


そう思っていたのに、この仕打ちだ。


4月に新しく入った研修生はもうすでに講師の間に入って馴染んでいる。

歓迎されたんだし、当然である。

自分は変わらず孤高の人である。

自ら孤高の人を貫いているとはいえ、この状況はいささか不安である。

5月からシフトも減ってしまうし、今後、講師のチャンスを掴むことはいっそう難しくなる。


事務員から会費の返還を受けるとき、茶封筒に小さく自分の名前と金額が鉛筆書きされていた。

そして、事務員の手元にはもう一通の茶封筒があった。

おそらく、自分以外に会費の返還を受ける人物がいるのだろう。

気にはなったが、歓送迎会があることを知らされなかったショックで、その時は誰だか判別することができなかった。


当然誰であるか気になったので、用もなく受付のあたりをうろうろした。

そして、事務員のいない隙に事務机の引き出しを覗き見した。

するとその茶封筒に薄く鉛筆書きしてある人物の名前が誰であるかわかった。


最近講師になったばかりの男性である。

彼の名前が茶封筒に鉛筆で薄書きしてあった。


彼も歓送迎会に呼ばれなかったのである。


彼は大学生で、2月にこの仕事を始め、4月に講師になったばかりである。

とすれば、今回の歓送迎会において、彼も自分同様歓迎される地位にある必要性と相当性はあるはずである。

彼も自分と同じように歓送迎会への参加の正当性を主張できるのだ。


そう、彼も呼ばれなかったのだ。

彼も自分と同じ仕打ちを受けたのだ。


こういうひどい仕打ちを彼に対してもするのか、この塾はそんなひどいことをするのかと憤慨した。

しかし同時に、「良かった、誘われなかったのは自分だけではなかったのか、彼も誘われなかったのか」と、一瞬ほっとしてしまった。


そのため、彼とはほとんど喋ったことがなかったが、急に親近感が湧いてしまった。

共産主義国が仮想敵国を作って一致団結するのと同じ感覚だ。

自分も塾に対して憤慨する気持ちがあるが、きっと彼も同じ思いを塾に対して抱くだろう。


なぜ歓送迎会に参加できなかったのか、彼も同じ疑念に苛まれるだろう。

自分と一緒に室長に詰め寄ることも考えられよう。

ただ、自分は彼の二回りも上の大人である。

一緒になって塾を仮想敵国に作り上げようというのでは、あまりに幼稚である。


ここは彼に同調せず、むしろ彼を勇気づけてやらなければならない。

この事件での一番の理解者は、同じ仕打ちを受けた自分しかいない。

二回り以上年上の自分が、彼の怒りを諌めて勇気づけてやらなければならないのだ。


彼にどう伝えてやろうか思案した。

「俺も誘われなかったから大丈夫だ、お前の気持ちは痛いほどよくわかるが、怒りの矛先を室長に向けてはならない。ここはぐっと堪えるんだ。」と伝えてやろうか、それとも、「自分も数多の辛い体験をしてきた、こんなことは些細なことだ、気にするな」と伝えてやろうか、いろいろ考えた。


こう考えるうちに、自分の気分も楽になったことに気が付いた。

彼を慰め、勇気づける方法を考えることで、まさに自分自身が慰められていたのだ。

むしろ、最初から自分の傷を癒す目的で茶封筒にある名前を覗き見たのかもしれない。


しかし、もはやそんなことはどうでもいいのだ。


こういうネガティブな体験でも、それが1人だけではないと思うと心理的負担がだいぶ違う。

ネガティブな体験を、誰かと共有し合えばかなり楽になるのだ。

そして、心理的負担が軽くなった分、親近感も湧いてくる。

そういう意味で彼に感謝しなくてはならないのかもしれない。


歓送迎会に意図的に呼ばなかったのは確かにひどいことである、

だが、そういうひどい体験を通じて、彼と「一緒に乗り切ろう、一緒にがんばろう」と団結できれば、自分の受けた仕打ちなど、痛くもかゆくもなくなる。

むしろそれによるプラスの効果の方が大きいのだ。

彼と友達になることができれば、今の孤独から少し解放されるかもしれない。

年は離れているから友達は難しいかもしれないが、やっと普通に話せる同僚ができるかもしれない。


自分が受験勉強で辛くて辛くて仕方がなかったのは、受験の苦しみを共有できる友達が一人もいなかったことも原因の一つだ。

これが解消できていれば、自分の人生も大きく違っていたかもしれない。


そんな風に彼に同情することで、自分のショックを和らげていた。


しかし、そんな同情も見当はずれだったことを思い知らされた。


彼のことが急に気になり、彼の5月のシフトがどうなっているか確認した。

自分と同じようにシフトを入れてもらえないのかと心配したのだ。


しかし、彼は自分と違い5月もきっちりシフトが入っていた。

それを見て、ほっとした反面、「シフトは入れてもらえてるのか、そこは自分と一緒じゃないんだな」とちょっと落胆した。


が、その後にその落胆を上回る強烈な衝撃を受ける。


ふと4月の彼のシフト表をめくった。

歓送迎会の日、彼のシフトは前後二日にわたり丁寧に×がつけられ、横に小さく「新歓合宿」と書かれていたのだ。


そう、彼は歓送迎会の日、新歓合宿だったのだ。


そもそも彼は呼ばれなかったわけではなかったのだ。

サークル活動の新歓合宿とバッティングしたため、サークルを優先したのだ。


単純に考えればすぐ気が付くことなのに、まったく気が付かなかった。

強制参加ではないのだから、いくら歓迎される立場にあったとしても欠席するのは当人の自由である。

そこまで考えなくとも、最初からシフトを確認すれば容易にわかることだ。


しかし全く気が付かなかった。

てっきり彼も自分と同じ仕打ちを受けたと思い込んでしまった。

そして丸2日間、彼を勝手に同情していた。


その2日間が走馬灯のように自分の中を駆け巡った。

会費の返還を受けたとき、会に参加できなかった怒涛の憤慨が沸き起こったこと、受付で彼の名前を発見したときは、屈折した安堵が自分を癒したこと、そして2日間、彼に対していらぬ同情をして自分を慰めていたことが自分の中をぐるぐる駆け巡った。

しかし、その2日間、彼が自ら欠席していたかもしれないという疑問はいっさい沸かなかった。


自分の狭隘な自尊心がその疑問を覆い隠したのだ。


自分は今この仕事以外何もしていない。

だからこの仕事が今の自分の生活の中心である。

しかし、他の皆はそんなことはない。

仕事以外に学校に通ったり、サークル活動に励んでいるのだ。


彼は自分と同じ2月に仕事を始めてもう講師である。

そんな奴が講師になれて、自分はまだ研修中で、しかもシフトすら入れてもらえない。


その現状が改めて自分に突き刺さる。

むしろ、切羽詰まった現状が、こんな激しい思い込みをさせたのかもしれない。


いや、そうではない。

現状のせいではない。

自分の捻くれた自尊心がそうさせたのだろう。


ただ、自分「だけ」を呼ばなかった理由を知りたい。

これだけは不思議で仕方がない。


もし、自分が他の講師のなかでも浮いていると思われたのであれば、むしろ積極的にイベントに参加させて打ち解けさせるべきだろう。

なぜ、こんな姑息な手段で参加させようとしなかったのか、そこが本当に不思議である。