最悪のシナリオを、個人レベルで想定しないと。それ以上に、国と企業の取り組みも大幅な見直しと対策が必要。

南海トラフ巨大地震、この被害想定では「住民も街も守れない」:日経ビジネ スオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121022/238417/
「南海トラフ巨大地震」の被害想定を受け、静岡県下田市を緊急取材した防災の鬼こ と渡辺実氏。彼が次に注目したのは市役所や地元企業。そこで見たのは対応に苦慮す るキーパーソンたちの姿だ。

阪神大震災を思い起こすと、今でも身の竦む思い。
震災の二日後に生まれた子供にも、あのときの大変さ、心細さを話すことしかできない。
それでも、伝えないよりは伝える方がいい。

なんとかなるだろ。

そんな思いは捨てないと、な。


阪神大震災、東北大地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
大切な方を亡くされた方にも、ご加護がありますように。
長州藩
生誕:天保4年12月29日(1834年2月7日)
死没:明治4年1月9日(1871年2月27日)
幼名は季之進。弘化元年12月、藩士波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。
後の「波多野金吾」

 長州藩士・柏村安利の四男として長門国萩十日市に生まれる。
千城中隊副総督
会津藩
$碧い宙の蒼い月
生誕 1836年2月15日(天保6年12月29日)
死没 1893年(明治26年)12月5日)
改名 銈之丞(幼名)→容保
主君 徳川家定→家茂→慶喜
陸奥国会津藩会津藩9代目藩主。高須四兄弟の1人。

 嘉永5年(1852年)に家督を継ぎ、万延元年(1860年)に桜田門外の変が起こった際、水戸藩討伐に反対し幕府と水戸藩との調停に努める。

 当初家臣たちは京都守護職就任を断わるよう藩主容保さんに進言し、容保さんも断っています。が、会津藩祖保科正之さんが記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」と、政事総裁職の松平春嶽さんに諭され、引き受けてしまいます。

 会津藩兵を率いて上洛した容保さんは京都守護職に就任。上洛した14代将軍徳川家茂の警護についていた浪士組みの一部を傘下に置き(後の新撰組)、京都市内の治安維持にあたりました。

 会津藩は幕府の主張する公武合体派として、反幕派の尊王攘夷と敵対。八月十八日の政変で薩摩藩と組み、長州藩を主とする尊攘派勢力の排除に動きます。

 慶応三年、徳川慶喜さんが大政奉還すると、京都守護職は廃止され、会津へ帰藩したいと願い出た容保さんを引きとめ、後の伏見・鳥羽の戦いへと巻き込みます。しかし大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱すると、それに従い弟である桑名藩主松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下ります。
 江戸に戻った慶喜さんが新政府に対し恭順を示すと、江戸城や旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内も同様の対立が起こります。
 会津に戻った容保さんは、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎します。が、新政府軍を賊軍とする藩士らは戦に参加。新政府軍も「幕府の重鎮」として政に携わって来た会津藩を敵対とします。

 孝明天皇からは信頼も厚く、容保さんの働きを賞揚する宸翰と御製を内密に下賜され、それらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはありませんでした。また会津戦争については周囲に何も語ることはなかったそうです。
今日の特集を見ていて、今まで関心がなかったジャンルを、真剣に観ている自分に驚いた。
歴史に興味えお持ち、政治にも関心を覚え、遂に金融か。と。

でも、よくよく考えると、興味なっかたのが不思議。
政治も経済も生活に無縁ではなく、密接な関係にあるもの。

政治家がなんとかしてくれる。

その政治家を選ぶのは国民である自分。
いまの日本を作ったのも、つまりは国民なんだと自覚する時期なのではないか。

日本国債が暴落すれば、政治経済が打撃を受ける。更なる雇用悪化が進み、社会保障制度が崩壊。

少子化日本。若者からの税収減少は、高齢化社会になって生活の安定が失われる。

されはて、これまでのツケの大きさにため息がでるばかりでなにもできない(笑)


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薩摩藩
生誕:弘化4年12月22日(1848年1月27日)
死没:昭和9年5月30日
幼名は仲五郎、14歳で元服し平八郎実良と名乗る。
 薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。