秀吉は小田原落城後すぐ、奥州へ軍馬を進めるための街道整備を命じます。
そして、秀吉は七月に江戸へ入り、その際、「(家康に)江戸の御普請を仰せつけられた」とする書状も残っています。
その直後の八月一日、家康は江戸入りするのです。
つまり秀吉は、自身の天下統一にとって江戸が極めて重要な拠点であるからこそ、家康に、江戸の開発と関東の支配を委ねたことになります。
ただし、家康の入府当時、江戸は鄙びた漁村でなかったにせよ、河川が複雑に入り組むという地形上の難点がありました。
まず江戸の中心部は、日比谷入江が江戸城方面へ深く湾入し、かつ、いまのJR中央線の飯田橋・水道橋付近は「小石川大沼」と呼ばれる沼地であったと考えられます。
そこで入府後、家康はまず、駿河台を切り崩した土砂で日比谷入江を埋め立てます。
これで、当時、「江戸前島」と呼ばれていた現在の日本橋・京橋・銀座から、日比谷・霞ヶ関方面までが陸続きとなりました。
次いで二代将軍秀忠の時代に本郷台地を切り崩し、神田川を開削します。
これによって大沼に水をたたえさせていた平川の流路が切り替わり、隅田川へ流れ落ちて大沼の水が枯れたのです。
こうして、現在の小石川付近にも人が住めるようになります。
御三家のひとつ、水戸徳川家がその地に屋敷を拝領したのが寛永六年(1629)のこと。
当時、すでに家康は死去したあと。
秀吉の天下統一のために江戸の開発を命じられた家康ですが、やはり、その代償は大きかったといえるでしょう。
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