真田と赤備えのイメージはどうして出来上がったのでしょうか。
むろん、真田隊がまったく赤備えと無縁だったのかというと、そうではありません。
翌年の大坂夏の陣のクライマックス。
総勢一五万五〇〇〇の徳川方が大坂城の天王寺口(大阪市天王寺区)と岡山口(大阪市生野区)に押し寄せ、幸村は天王寺口の大将に任じられました。
このときの真田隊は、
「紅の旗指物吹貫候て、ツツジの花の咲き散り乱れたるごとく」
であったと、徳川方の『大坂御陣覚書』という史料にみえます。
徳川方が敵の真田隊の軍装を誇張する必要はなく、まさに真田隊は、旗指物や軍旗(旌旗)・吹貫を赤で統一し、徳川方からみても、全体的に赤備えの印象だったのでしょう。
この合戦で幸村は一時、徳川家康の本陣を混乱させる活躍をみせます。
その活躍はのちに、精悍で鳴る島津家の薩摩武士からも「日本一のつわもの。古よりの物語にもこれなきよし」(『薩摩旧記』)と称賛されるほどでした。
したがいまして、夏の陣における真田隊の鬼気迫る活躍が、その際の軍装とともに伝わり、「赤備え=真田」、また、冬の陣屏風に描かれる真田丸も、同じ理由から赤備えとして描かれたのではないでしょうか。
では、その赤備えのルーツはどこにあるのか。
次にその謎に迫りたいと思います。
(つづく)
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