今の自分が受験生のためにできることってなんだろう?てふと考えていました。

正直「頑張れば報われるから頑張れ!」なんて無責任なことは言えないし、受験生として受験に専念できるようなマインドセットに持ち込んで受験勉強に気持ちを集中させるみたいなこともあまり気乗りがしません。

それは大学受験に関してあまり良い感情を持ち合わせていないからですね。

先日の記事にも書いた通り、受験期の勉強と大学での勉強は驚くほど違う上に、今の勉強がかなり楽しい&身になってる実感があるし、これは段階的なものではないと思っているんですね。

「段階的でない」というのはどういう事かというと、「受験期の勉強の延長線上に大学の勉強がある」というものではない、というのと、「大学の勉強は受験期までの勉強が土台となっているから、大学での勉強を高校時代にやるべきではない」というものでもない、ということです。別に大学でやる勉強を高校時代にやっても一向に構わないと思っています。

ただ、大きな問題として、今の筆記試験超重視の大学受験制度からすると、受験勉強向けの勉強をしないことのリスクがそれなりにあるということです。

最近東大が推薦入試を導入したり、早稲田がAO入試の枠を拡げたのは良い傾向じゃないかなと僕は個人的には思っています。そういう枠であれば、いわゆる「受験勉強」を一切やらなくても、「私はこうこうこういうことに興味があって、こういうやりたいことがあるからこういう勉強をしてきました。実際こういう成果も挙げています。これからも自分の勉強を追及していくために本校への入学を希望します」ってな感じでかなり正当な理由でもって大学進学が実現します。

実際、早稲田では一般入試よりもAO入試で入学した人の方が大学での成績がいいらしいですからね(まあ、そもそも大学での成績が良いからなんだってのもあるし、そもそも母集団に違いがあるだろってのもありますが…)。


そういう考えを持っている僕ですが、かといって今受験勉強に取り組んでいる人たちに「大学行っても受験勉強のために勉強したことなんて役に立たないからやめろ!」なんて極端なことを言うつもりはありません。

今受験勉強に取り組んでいる人には、ぜひともその努力を完遂してもらって、無事第一志望合格を勝ち取っていただきたい。

そして、その後はスッパリと受験勉強とは縁を切っていただきたい笑(塾講師とかで仕事として必要ならば別として)

今まで無駄に色々経験してきて思うことは、「永続性のある努力よりも一回性の強い努力の方が圧倒的に多い」ということです。

どういうことかというと、例えば受験勉強って、言ってみればたった一日の、ものの数時間のテストで結果を出すために、何十時間、何百時間という膨大な時間をかけるじゃないですか。

演劇で言えば、ものの90分ほどの出し物のために、何週間何か月もの稽古期間を費やすし、お金もかなりかけます。

たった5分のCDを作るために、歌手は何十時間何百時間もの時間をかけ、演奏者や編曲者も膨大な時間をかけて収録に臨みます。

「何かを作り出す」とか「成果を挙げる」となると、時間や大きさは大したことのない物でも、そこには膨大な努力や時間が詰まっています。そして、その蓄積の度合いが密であるほど、その成果の一瞬の輝きは鮮やかである場合が多いです。その「一瞬の輝き」にこそ、努力や時間を費やす価値があります。

「最小の努力で最大の成果」なんて言葉は魅力的ですが、その「最小」の中にどれだけの努力が詰まっているのでしょうか。


受験勉強のために積み重ねた努力は、おそらく「大学合格」という成果を得た段階で儚く消え去ります。「受験勉強これだけ頑張ったんだから大学生活もきっと上手くいく。就職も上手く行く。」なんてことはあり得ません。大学に入ったら大学に入った後での努力、就職するのならば就職するための努力が必要になります。

逆に言えば、大学に受かるためには、受験勉強だけを頑張ればいいんです。
どんだけ性格が最低でも、今まで自堕落な生活をしていたとしても、友達が一人もいなくても、何のとりえがなくても、受験勉強を積み重ねさえすれば大学は受かります。
そして、その大学合格のために費やした時間・努力はかならず大学合格という成果物を生み出すことに貢献してくれます。

もし「自分はどこも受からないんじゃないだろうか…」とか「自分のような人間は大学に行く価値がないんじゃないだろうか…」とか思っている人がいたらそれはてんで的外れです。そもそも受験勉強に気持ちが向いている段階で、受験生としての素質はあるし、今まで受験勉強に費やしてきた努力や時間、そしてこれから積み重ねる勉強は必ず大学合格への可能性を上げてくれます。

ここまで来たら、とにかく受験勉強に時間を費やしてください。合格率を上げるにはそれしかないです。少しでも「受験勉強に意味なんてあるんだろうか…」なんて考えてはいけません。

上でも言ったように、受験勉強には大学合格という成果を挙げる以外の価値はありません。大学に合格した瞬間に受験勉強は意義を失います。
しかし、それこそが「成果を挙げる」ということなのです。努力というものは、たった一瞬の輝きを得るためにするからこそ価値があるのです。

どうか、「一瞬の輝き」のための努力を惜しまないでください。その輝きが一瞬であれば一瞬であるほど、その努力が膨大であればあるほど、成果も感動も大きいものとなるでしょう。そういう意味では、受験勉強は大変意義のあるものだと思います。


良いお年を!(本日二回目)
最近よく思うのは、「箱ものとしての学校」ってのは必ずしも必要じゃなくなってくるのかもなってことです。

KADOKAWAが「N高校」なんていうほぼネットで授業を受ける形式の高校を作りましたけど、こういう形態の教育が今後はますます普及していくんじゃないかな、と思います。というか、こういう教育の方が今の世の中にマッチしているんじゃないかなと思います。

「学校に行きたくない、学校行くのめんどくさい」って思ったことは誰でもあると思います。もちろん僕も経験はあります。

そういう時って、「でも行かなきゃならないから行く」とか、「親に怒られるから行く」とか、一種の「義務感」からしぶしぶ行動する場合が多いと思います。

この「義務感」ってのが曲者で、僕はプラスの義務感とマイナスの義務感があると思っています。

プラスの義務感ってのは、「自分にはこういうやりたいことがある。そのためにはこうすることが必要だし、やる気もある。だからやらなければならない」っていう、自分の「意思」とか「願望」が絡んでるポジティブなもの

マイナスの義務感ってのは「本当はやりたくないけど、これをやらなければ誰かに怒られる、呆れられる、見放される。もしくは世間的にこれはやらなければならないのが常識なのだからやらなければならない」といったような、「自分以外の指標」から判断しているネガティブなもの

全てが全てというわけにはいかないかもしれませんが、基本的には「プラスの義務感」で動きたいものです。しかし、「マイナスの義務感」にさいなまれて日々苦痛を感じている人も多いのではないでしょうか。

一番厄介なのは、本当はそうではないのに、「これは自分がやりたいことなのだ、だからやらなければならない」と、「思い込んでいる」場合。

本人は自分の意思だと思っているけど、実は何かしらかの外部の圧力を感じていたり、一種の「強迫観念」のようなものに駆られていて、自分で自分を苦しめている場合です。しかもそれを自分で自覚していないものだから、身体的もしくは精神的に蝕まれてしまうことも。

楽にこなせる課題なんてものはそうそうないけれど、苦痛しか感じず耐え忍ばなければならないだけの課題というものは果たして本当にその人の乗り越えるべき課題なのかどうか?はなはだ疑問です。

最初の「学校に行きたくない」の話題に戻りましょう。こんなことを書いていますが、実は大学に入ってからは、「大学に行きたくない」と思ったことはほぼ皆無です。春と秋に一度づつありましたが、そのときはちゃんと(?)学校を休みました笑

それは「大学に行きたくて行ってるから」に他なりません。毎日の勉強や授業を本当に楽しんでるし、課題等がキツイことも多々ありますが、そのキツさも含めて楽しんでいます。だから、「勉強したくない」とか「学校行きたくない」とか、そういうネガティブな考えが押し寄せてくることがほとんどないです(あったとしても、たいてい一晩寝るとリセットされることがほとんど)。

しかし、「だから学校行きたくないみんなも学校の楽しさを知って学校に来よう!」なんていう気はさらさらありません。そんなのは時代遅れも甚だしい。

「学校に来たい人は来て、来たくない人は来なくていい」というのが、一番健全だと僕は思います。

しかしこういうと、「じゃあ学校来たくない人は教育を受けるなってことか」って意見が出てきそうですが、僕はその認識を改めるべきだと思います。
「教育=学校=通学」というのが今までの常識ですが、最後の「通学」をカッコにくくってしまえばいい。

それこそ今はインターネットで容易に情報収集が出来る時代です。それも非常に効率的に。これを有効活用しない手はないと思います。

そしてネットの教育活用の話題を出すとすぐに「セキュリティ」とか「情報の信頼性」とか「コミュニケーション能力の低下」とかいう反論を提示されるでしょう。
しかしこれらはあくまで、「ネットの教育活用に関する反論」です。たとえこれらの反論が的を射ていたとしても、それがそのまま、「じゃあ今までの教育の方が正しいよね」という風にはならないはずです。

人間は変化を嫌う生き物だから、いわゆる「抜本的な改革」には直感的に恐怖を覚えます。そして、必死に「元に戻そう」とします。そしていつしか「改革」は本当の意味での「改革」ではなく、せっかく変わろうとしていたものを「元に戻す」ことが目的化してしまっています。

この「改革」が「元に戻そう」という方向に向かって行ってるのって、なんだか江戸時代の改革を思い出します。「享保の改革」も「寛政の改革」も、全部「元に戻そう」というもので、実は本当の意味での「改革」ではありません。
そんな中、田沼意次だけは本当の意味での「改革」を行おうとしましたが、彼の事業はなぜか「田沼の政治」と呼ばれるだけで、「改革」とはみなされていません。なぜなら彼は本当に世の中を「変えよう」としていて、その政治は「元に戻そう」という性質のものではなかったからです。なんだか皮肉ですね。



完全に話がそれて行ってしまっていますね笑

「みんなつまんない義務感に縛られずやりたいことやろうぜ!」ってな感じのことを言いたかっただけなんですが笑

まあ、大学生活楽しんでますよって感じです笑


よいお年を!!!笑
本当にめちゃめちゃ久しぶりですね(笑)一度書かなくなると本当に全く書かなくなるもんで、アメブロを開くこと自体久し振りすぎです(笑)

大学生活は本当に楽しんでいます。遊びにバイトに勉強に、どれも抜かりなく取り組み、毎日がかなり充実しています。そう考えると、一大決心をして受験した甲斐もあるってもんですね。

もしかしたら前に書いたかもしれないけど、正直、『受験期にしていた勉強』と、今『大学で行っている勉強』はまるっきり違いますね。少なくとも受験勉強は果てしなくつまらなく、大学での勉強はキツイけどかなり楽しい、という実感があります。

一番違うのは、与えられた課題なのか、自分で選び取った課題なのか、の違いですね。大学の勉強は、楽しようと思えばいくらでも楽できるし、受験期のような詰め込みや問題演習こなしてもできる。だけど、それはどうもつまらない。
どうせなら、自分のやりたいように、好きなように勉強した方が絶対楽しいし、今のところそれで上手くいってるので続けています。特に、決まった答えがなく、自分で問題提起から結論へ導くまでをも作り上げるのは、苦労は絶えないけどとてもやりがいがあります。


かといって、この勉強を受験期から行うのはかなりリスクが高い。なぜなら、大学受験では自分で答えを作り出してはいけないから。
今の受験制度では、過去の例に倣って、合格最低点をかっさらえるように過去問研究なり、基礎の単語や文法の習得、問題演習をするっていう王道の勉強を我慢してやるのが一番なんだろうな、っていう思いがありますね。まあ、もう受験勉強からはかなり遠ざかってるので説得力は低いですけど…


気が向いたら大学生活とか、大学での勉強に関しても詳しく書いていきますねーではまたー
おはようございます。

寒い日が続きますね。今年の夏は暑い日寒い日どちらか極端な日が多かったような気がします。温暖化温暖化言われてますが、なんというか、天候不順が加速している印象を僕は持っています。


さて、今回は再びニュース記事を一本取り上げます。




これはよーするに、「勉強面では色々言われてるけどスポーツ面では成功してるよ!」ってことです。

僕がこの記事を読んで思ったのは、メディアがいかに偏向報道をしているか、そして、僕たち受け手側がいかに断片的情報を鵜呑みにしているか、ということです。

実はこの記事を読む前に、夏野剛氏が上記の記事の内容に近いことを発言していたのですが、その時に、「自分はなんで自分でよく調べもせずにゆとり教育を悪いものとみなしていたのだろう」と反省したものです。

確かに受験勉強などの学習面に関しては、学力の低下などが見られるために、ゆとり教育が仇となった、と言われても仕方ないとは思います。
かといって、その一面だけを切り出して、あたかもゆとり教育が全面的に失策であり、良い面がみられない、とするのはいただけない。少なくとも僕が今までに触れてきた情報ではそのように取り扱っていた印象があります。

実際この「なんとなくの印象」ってやつがものすごく大事で、人間は基本的にこの「なんとなくの印象」を、大した根拠なしに無意識に正しいものとして認識してしまいます。

これはダニエル=カーネマン著、『ファスト&スロー』に書かれている「ファスト脳」ってやつです。
詳しい説明は本書に譲りますが、簡単に言うと、人間の思考は「速い思考(ファスト脳)」と「遅い思考(スロー脳)」があって、ファスト脳は直感に近いもの、遅い思考は熟考、熟慮を指すといった感じです。
そして、大半の人は、この「ファスト脳」で物事を判断し、いかにもそこにれっきとした論理があるかのように、根拠のない自信を持って信じてしまうものらしいです。

このファスト脳を盲信してしまうのだけは何としても避けるべきだと僕は思います。

もちろん生きていく上でいちいち一つ一つの事柄を熟考なんてしていられないし、むしろそんなことしたらかなり生きづらいしつまらない人生になる可能性もあるので、全てに関してとは言いませんが。

せめて自分が興味を持った分野に関してくらい、「本当にそうなのか?」「根拠は何なのか?」「他に見解はないのか?」などの疑問を持って、自分なりに調査したり思考したりして、キチンと根拠に基づいた自分の意見を持つべきだと思います。
特に大学生は、そういったことこそ大学で学ぶべき知の技法なのだからなおさらです。受験勉強で主流であった受け身のお勉強もいいですが、自ら議題を掲げて能動的に学習する姿勢を身につけることは必須事項だと僕は思います。ニュースなどでふと耳に入ってくる情報は大抵偏った情報ばかりです。良い意味でも悪い意味でも。調べたり考えてみると違った見方を見つけたり、より深い理解が得られることと思います。


よーするに今回言いたかったことは、「情報を鵜呑みにせず、自分なりの意見を持とう」ということでした。

なーんてことを、今回の記事を読んで思いましたよと。みなさんはどう感じたでしょうか?

それでは、また。


こんにちは。

もう8月も終わりですね。まあ、大学生はまだ一ヶ月近く休みありますけど笑

され、今日は下記の記事に関して、色々書いていこうと思います。


題名だけ見ると、「まさか資格ないと塾講師出来なくなっちゃうの!?」と勘違いしそうですが、そういうわけでなく、あくまで「力量の目安」として行うもののようです。言ってみれば、英検とかTOEICみたいなもんです。

最初この記事を読んだときは、「これで塾講師の質が向上し、より勉強しやすい環境が整うな!」なんてことを思っていました。

しかし、よくよく考えてみると、問題はあります。

一番問題だと思うのは、「塾講師になるための塾講師検定のための勉強」みたいな余計な一手間が生まれてしまう可能性が高いこと。

こういう検定が出るということは、当然「より高い級の検定を持ってる塾講師の方が時給なり採用率が高い」ということになります。もっと言えば、「塾講師になるならば塾講師検定を取るべき」とか、「どうせ受けるならば塾講師検定を持ってる人の授業」ということになるでしょう。

本来ならば、塾講師として働きながら指導法なりなんなりを学んでいけばいいのに、検定が出現することにより、「塾講師になるにはまず塾講師検定取得から!」なんて流れになりかねない。そして、世の大学生は「塾講師検定のための塾」に通いだしたり「塾講師検定のための勉強」をし出す。日本人が好きな「準備のための準備」が増えてしまうだけだ。

確かに教授法は大事かもしれないけど、あくまで方法は方法。実践は実践。そのような無駄な一手間をふやすよりも、さっさと現場に放り込んでしまえばいいと思う。どうせ大半は一時的に塾講師に携わるだけなのだから。それにもし「ブランド力」とか「信用」を持たせたいのであれば、それは「所属・出身大学」で十分でしょう。いちいち検定を振りかざす必要はない。入試の段階で頑張ればいいだけ。


要するに、「あってもいいけど無駄な一手間増えるだけだよね」ということです。


そう考えると、その他ある検定も果たして受ける価値はあるのかと思ってしまいますね。正直、基本的に検定ものは「検定取得のための知識・方法」が身につくだけですからね。


なんてことを僕は思いましたけど、みなさんじゃどう思うでしょうか。


今回の記事は以上です。ではまた。