死の体験旅行 | 自転車に家族を殺されるということ

自転車に家族を殺されるということ

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2014年1月28日に判決が出て裁判は終わりましたが、私の交通犯罪遺族活動は続いています。

やっと連休になって、ブログを書く時間が取れました。
訴訟報告の前に、肩の力を抜いて、まずは簡単に趣味報告。


偶然見つけて興味をもったので、先月末の10月29日、
「死の体験旅行」というイベントに参加してきました。


場所は門前仲町にある臨済宗の禅寺の陽岳寺さんでした。
お寺での開催ですが、宗教無関係のイベントです。


ターミナルケア(終末期医療)から生まれたもので、
一種のストーリー瞑想を行うものです。


体調が悪くなった変化に気付いて、病院に行き、
精密検査を受け、家族とともに呼び出され、ガンを宣告され、
会社を休職し、入院して手術、その後も病気と闘いつつ、
結局治療をあきらめて、自宅での緩和ケアへと移り・・・
最後に息を引き取る瞬間までのナレーションを聞きつつ、
大切なものを捨てていくという作業のワークショップです。


まず大切なものを、4つのグループに分けて5個づつ、
計20個、色分けした紙片に書き出します。
白い紙にモノ(物質的なもの)、青い紙には自然、
ピンク色の紙には関わっている活動、黄色い紙には人・・・。


その上で、先ほどの死に向かうナレーションを聞きつつ、
「ここで1枚、紙を捨ててください」
「ここであなたは3枚の紙を失います」
と言われ、その指示に従って、紙を丸めて捨てていきます。


最初は選べますが、最後は選択の余裕はありません。


自然好きな私ですが、私は自然の青い紙が真っ先に消えました。


遺族活動もピンク色の紙に書いていましたが、
中盤あたりで手放さなくてはなりませんでした・・・。


何を書き、それをどのような順番で捨てていったかは、
ちょっとだけセンシティブな部分もあるので書きませんが、
最後まで残るのは生きるために最低限必要なものだけ・・・。


人生のはかなさを感じる貴重な体験をさせてもらいました。


最後に、死を迎え、絶対的な静寂を仮想体験したあと、
「私は生きている」「私は生きている」「私は生きている」
と3回念じて、ワークショップは終了となります。


この「死の体験旅行」というワークショップは、
「死」と向かい合うというだけにとどまるものではなく、
「生きること」と向かい合うためのものだそうです。


個人的な傾向を振り返れば、私は死の恐怖はあまりなく、
残された周りがどうなるかということばかり考えました。


私の年齢になると、既に鬼籍にいる同年代が何人かいます。
病死、急性心不全、自死・・・死因はさまざまですが、
(殺人や交通犯罪で亡くなった人は同年代にはいません)
交通犯罪被害者遺族となり、遺族活動をしていると、
去る者の無念、残された者の無念を思わずにはいられません。


死は誰にも訪れるもので、避けられるものではありません。

しかし、それは受け入れる時間と覚悟を与えられるべきで、
残された者が遺族活動などしないで済む死というものが、
本来あるべき死の姿なのかなとも思ってしまいました。


死とは、尊厳のあるものであるべきと考えます。


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