唐揚げにレモンをかけようが、食事の写メを撮ろうが
実際はどうでもいいんだよ。
文字にしてギャアギャア騒ぐほど、他人なんか見ちゃいないし
そもそも苛立つほどの人間関係自体がない奴ほど、まるで当事者の顔をして叩く。
彼らが欲しいのは「被害者A」という仮面だから。
瑣末なことを、わざわざ叩く理由とは?
「誰かと一緒に居たい(自分を好きになって欲しい)」って本音を素直に言えない人は
拗ねてヒネてぼっちの自分を正当化する為に、他人を拒絶するしかない。
「拒絶する」というポーズは、「入手不可」を「不要」に置き換えることができるから
欲しくても手に入らないという悔しさを、最初っから要らないモ~ンという強がりで隠すことが出来る。
拗ねてヒネてぼっちの自分を正当化する為に、他人を拒絶するしかない。
「拒絶する」というポーズは、「入手不可」を「不要」に置き換えることができるから
欲しくても手に入らないという悔しさを、最初っから要らないモ~ンという強がりで隠すことが出来る。
「クソどうでもいいわwwww」
↑と言いながらわざわざ「憎むべき他者」を気にして、攻撃せずに居られない理由とは?
蔑み、見下し、怒り、嫌悪し、拒絶ばかりしてる人というのは
↑と言いながらわざわざ「憎むべき他者」を気にして、攻撃せずに居られない理由とは?
蔑み、見下し、怒り、嫌悪し、拒絶ばかりしてる人というのは
「自分は誰からも好かれない無価値な存在なのではないか?」
という劣等感の恐怖から身を守る為に
「嫌われている事を知ってしまう前に、コチラから嫌いになってしまえばいい」
という先手をとって安心しようとしているからなの。
でも、そのやり方じゃ
結局ぼっちな事にかわりないのよね。自分も他人も受け入れないんだから。
好転しない状況に苛立がつのり・・・
やがて、孤独の苦痛を与えているのは他者の存在自体だと思い込むようになる。
THE 責任転嫁
結局ぼっちな事にかわりないのよね。自分も他人も受け入れないんだから。
好転しない状況に苛立がつのり・・・
やがて、孤独の苦痛を与えているのは他者の存在自体だと思い込むようになる。
THE 責任転嫁
劣等感と孤独感から身を守る為
毎日必死に批判(拒絶)できる他者を探すようになるの。
相手を拒絶した一瞬のみ、優越感による安心(自己肯定感)を覚え・・・
やがては拒絶する為だけに生きるようになってしまう。拒絶中毒。
あいつもクソだ、こいつもクソだと言っていれば
間接的に「自分はクソじゃない」と思うことが出来る。
素直じゃない、ヒネくれた自己肯定ね。
でも、自分を認める為に他人を貶めたり拒絶するのは
結局「ありのままの自分を認められません」と公言するのと同じなの。
対比や比較によって「自分の方がマシだ」と思うのは
その「比較基準・評価基準」の奴隷になることを意味する。
自分の目で見ず、自分の手で触れず、自分の感性で感じないまま
ただ誰かの設定した「正しさ」に縋ってしまえば
自分も他人も裁き続けるだけのジャッジ地獄になってしまう。
毎日必死に批判(拒絶)できる他者を探すようになるの。
相手を拒絶した一瞬のみ、優越感による安心(自己肯定感)を覚え・・・
やがては拒絶する為だけに生きるようになってしまう。拒絶中毒。
あいつもクソだ、こいつもクソだと言っていれば
間接的に「自分はクソじゃない」と思うことが出来る。
素直じゃない、ヒネくれた自己肯定ね。
でも、自分を認める為に他人を貶めたり拒絶するのは
結局「ありのままの自分を認められません」と公言するのと同じなの。
対比や比較によって「自分の方がマシだ」と思うのは
その「比較基準・評価基準」の奴隷になることを意味する。
自分の目で見ず、自分の手で触れず、自分の感性で感じないまま
ただ誰かの設定した「正しさ」に縋ってしまえば
自分も他人も裁き続けるだけのジャッジ地獄になってしまう。