亀田史郎氏に思う・ゲンコツ親父よ起て!②
【①のつづき】
日本と言う国はストイックな民族性もあってか、『大きい声を出す人間』を嫌う傾向もあるのかも知れません。
亀田史郎氏の暴言は、TVでのやくみつる氏との対談などでも問題視されていました。
その他にも観客の野次に応戦してみたり、リングサイドで好戦的な野次を飛ばすなど、とかくマスコミでも取り沙汰される事が多かった様です。
私は正直なところ…亀田史郎氏に同じDNAを感じ、親しみを持っているのかも知れません…。
やくみつる氏との対談で見られる様な彼がとる好戦的な態度というものも、公共の電波に乗る事を考えた時に…
ボクサー亀田興毅の名前から発生するケースメリットをマネジメントし、計算高い『商売人』であれば、亀田興毅君の宣伝媒体などに及ぶ影響を考えて…
やくみつる氏の挑発とも思える言動に乗る事もなく、煙にまいた話しで終始したのかも知れません。
確かに、亀田史郎氏の対マスコミやセコンドでの対応などに問題が無かったとは言えませんが…
ただこれさえも『喧嘩ボクシング』にこだわる亀田家のそのスタイルやパフォーマンスを損なわまいとする史郎氏一流の愚直さの現れとも言えるのではないでしょうか?
人間というものは、自分の選び取る価値観があります…その影響は思考、感情、行動パターン全てに及ぶのかも知れません。
私は、亀田史郎氏の胸の内は知る術もありませんが…
ただ…私から見て史郎氏の世界観、サンクチュアリ(聖域)とでも言うべきものは、家族との絆に見受けられたものです。
そしてボクシングの対戦相手は勿論の事、世間や周囲の人々にさえ、あえて隔絶する様なスタンスをとる事によって、家族が一丸となり『世界チャンプ』になる事にその持てる全エネルギーを意図的に向けていたのだと思うのです。
ひとつの方向にむけられた情熱やパッションというエネルギーは、 時に強力な現実の創造をもたらします。
そしてそこに過剰な競争意識がある場合、その現実化に拍車をかける場合もあります。
純粋に一途な思いやそこに費やしてきた努力というものも見事に開花する時もあれば…
その思いを努力を陰で支えていた『負の想念』…それは他者を排しても勝てば良しという思い…
信ずるは家族だけというストイックな信念や、周囲や対戦相手に対しての必要以上の好戦的スタイルをとる事によって家族を『結束』させたその意図と言うもの…
自分のスタイルにこだわるあまり、周囲の忠告やアドバイスといった他者の情報を拒絶する姿勢など…
こうした徒花とも言うべきものも見事に実るものです。
私自身を振り返って考えてみても…
過去の私というのは『一発屋』とも言う様なところがあり、『自分のハマリどころ』を捉えた時は運気の流れに乗り万事好調なのですが…
一度低迷しだすと…自分のプライドが邪魔をし、周囲との調和を失い、他人にへつらう様な葛藤を感じ、柔軟性を欠いた考えが自分を支配し、そのフリーズした状況からなかなか抜け出せず停滞してしまうパターンがあった様な気がします。
亀田史郎氏には失礼かも知れませんが…彼にも同じ匂いを嗅ぎとる事が出来るのです。
ボクシング界から永久追放され、マスコミや世論の非難にさらされ…
今この時期、亀田史郎氏にとって、大きな試練である事は間違いないと思います。
しかしながら…世界チャンピオンになる選手を手塩にかけて育て、ボクシングの世界で三人もその頂点を標榜できる選手を育成した彼でもあります。
今はエネルギーは粗いのかも知れません、不遇に置かれた今…なおさらに周りを呪い他者に対して厳しさに過ぎる考えが彼を支配しているのやも知れませんが…
でも…亀田史郎氏が自分の子供達に鬼コーチを演じても、時折見せる愛情と尊敬の目線…
そうしたものを非行に走る子供や、次世代の若者達に向ける事が出来たならば、そんじょそこいらの学校の先生などフッ飛んでしまうほどの『パワフルな教師』になれると感じているのは私だけでしょうか?
話しは変わりますが…正月の番組で、大阪の橋下府知事と亀田興毅選手が共にTVに出演していたのですが…
その中で橋下知事が大阪では先生達が対応しかねる程の荒廃した現状の学校が幾つもあって、そうした教育の現場に『やれば出来るんだ!』と、亀田興毅君がチャンピオンになった道のりや、またそれを支えた亀田史郎氏や兄弟達の生き様を熱く語る機会を是非作りたいと云う様な意味の事を言っていました。
私はこれを見た時に内心「その通りだ!」と思ったものです。
今後において…亀田史郎氏の情熱を求めるテーマは案外こうした場所にもあるのではないかとも思ってみたりします。
史郎氏の人生は彼のものであり、見ず知らずの私が、こうだと断言出来る様なものではありませんが…
しかしながら、同じ昭和40年生まれの亀田史郎氏に、ツッパリ世代を生きてきた同級生としてエールを送りたい気持ちもあるのも事実です。
亀田興毅君や兄弟達は史郎氏の鍛え方が良かった事もあり、どんなトレーナーに付こうとも充分に自らの能力を発揮出来る地金が出来ている様に思います。
子供達のセコンドにつく希望を絶たれた今、一抹の寂しさはあると思いますが、子供達のそれからは卒業して、精神的バックボーンとして心の支えになってあげたらそれで充分ではないでしょうか。
人の人生とは、ある面皮肉でもあります。
私がヤクザをしていた当時は、私についてきた人間に対し、私は本当に責めるに厳しい人間だった様な気がします。
他の組織の人間に負けないで欲しい…
警察の取り調べに屈せぬ根性を持って欲しい…
ヤクザの生き方から発生する信念や考え方を私についてきた人達にぶつけ、鋳型にハメ様とばかりしていたのでした。
そこへ持ってきて、若手の組長と言う事の気負いもあり『ナメられてたまるか』とピリピリした雰囲気を常に発散させていた様な気がします。
でも、人それぞれなものがある事はその後気付かされた事でもあります。
優しい心根を持つ人間に、先鋭化された考えを押しつけてもどだい無理があるのです。
そんな私について行けないと思ったのか?
私の元を夜逃げ同様に去って行った人間達もいます。
おおらかさや優しさ、人の美点を認め伸ばす事…人を束ね率いて行く上で必要な資質は、極道から堅気になったその後で私に訪れたのです。
何かにしがみつくのをやめ手放す時こそ、本当に自分にとって必要なものが(内面の豊かさ)流れ込んでくる様になるのやも知れません。
亀田史郎氏にとっての本当の意味でのリベンジはこれからなのだと思います。
熱い鉄に触れてやけどをしなければ熱さをわからないのも人間なのです。
ひとに脚の脛を思いっきり蹴飛ばされるまで痛みがわからないのも人間なのです。
こうした経験もその後の人生で必要で完璧な経験だったと必ず思える日がくると思います。
またこうした経験を恥じる必要はなんらありません…。
自分の経験がそこにある時『人の痛み』を知る事が出来ます。
亀田史郎氏も、まだ当面はマスコミから指弾される日が続くかも知れませんが…
史郎氏が再度違う形でブレイクする事を心から願うばかりです。
合掌
日本と言う国はストイックな民族性もあってか、『大きい声を出す人間』を嫌う傾向もあるのかも知れません。
亀田史郎氏の暴言は、TVでのやくみつる氏との対談などでも問題視されていました。
その他にも観客の野次に応戦してみたり、リングサイドで好戦的な野次を飛ばすなど、とかくマスコミでも取り沙汰される事が多かった様です。
私は正直なところ…亀田史郎氏に同じDNAを感じ、親しみを持っているのかも知れません…。
やくみつる氏との対談で見られる様な彼がとる好戦的な態度というものも、公共の電波に乗る事を考えた時に…
ボクサー亀田興毅の名前から発生するケースメリットをマネジメントし、計算高い『商売人』であれば、亀田興毅君の宣伝媒体などに及ぶ影響を考えて…
やくみつる氏の挑発とも思える言動に乗る事もなく、煙にまいた話しで終始したのかも知れません。
確かに、亀田史郎氏の対マスコミやセコンドでの対応などに問題が無かったとは言えませんが…
ただこれさえも『喧嘩ボクシング』にこだわる亀田家のそのスタイルやパフォーマンスを損なわまいとする史郎氏一流の愚直さの現れとも言えるのではないでしょうか?
人間というものは、自分の選び取る価値観があります…その影響は思考、感情、行動パターン全てに及ぶのかも知れません。
私は、亀田史郎氏の胸の内は知る術もありませんが…
ただ…私から見て史郎氏の世界観、サンクチュアリ(聖域)とでも言うべきものは、家族との絆に見受けられたものです。
そしてボクシングの対戦相手は勿論の事、世間や周囲の人々にさえ、あえて隔絶する様なスタンスをとる事によって、家族が一丸となり『世界チャンプ』になる事にその持てる全エネルギーを意図的に向けていたのだと思うのです。
ひとつの方向にむけられた情熱やパッションというエネルギーは、 時に強力な現実の創造をもたらします。
そしてそこに過剰な競争意識がある場合、その現実化に拍車をかける場合もあります。
純粋に一途な思いやそこに費やしてきた努力というものも見事に開花する時もあれば…
その思いを努力を陰で支えていた『負の想念』…それは他者を排しても勝てば良しという思い…
信ずるは家族だけというストイックな信念や、周囲や対戦相手に対しての必要以上の好戦的スタイルをとる事によって家族を『結束』させたその意図と言うもの…
自分のスタイルにこだわるあまり、周囲の忠告やアドバイスといった他者の情報を拒絶する姿勢など…
こうした徒花とも言うべきものも見事に実るものです。
私自身を振り返って考えてみても…
過去の私というのは『一発屋』とも言う様なところがあり、『自分のハマリどころ』を捉えた時は運気の流れに乗り万事好調なのですが…
一度低迷しだすと…自分のプライドが邪魔をし、周囲との調和を失い、他人にへつらう様な葛藤を感じ、柔軟性を欠いた考えが自分を支配し、そのフリーズした状況からなかなか抜け出せず停滞してしまうパターンがあった様な気がします。
亀田史郎氏には失礼かも知れませんが…彼にも同じ匂いを嗅ぎとる事が出来るのです。
ボクシング界から永久追放され、マスコミや世論の非難にさらされ…
今この時期、亀田史郎氏にとって、大きな試練である事は間違いないと思います。
しかしながら…世界チャンピオンになる選手を手塩にかけて育て、ボクシングの世界で三人もその頂点を標榜できる選手を育成した彼でもあります。
今はエネルギーは粗いのかも知れません、不遇に置かれた今…なおさらに周りを呪い他者に対して厳しさに過ぎる考えが彼を支配しているのやも知れませんが…
でも…亀田史郎氏が自分の子供達に鬼コーチを演じても、時折見せる愛情と尊敬の目線…
そうしたものを非行に走る子供や、次世代の若者達に向ける事が出来たならば、そんじょそこいらの学校の先生などフッ飛んでしまうほどの『パワフルな教師』になれると感じているのは私だけでしょうか?
話しは変わりますが…正月の番組で、大阪の橋下府知事と亀田興毅選手が共にTVに出演していたのですが…
その中で橋下知事が大阪では先生達が対応しかねる程の荒廃した現状の学校が幾つもあって、そうした教育の現場に『やれば出来るんだ!』と、亀田興毅君がチャンピオンになった道のりや、またそれを支えた亀田史郎氏や兄弟達の生き様を熱く語る機会を是非作りたいと云う様な意味の事を言っていました。
私はこれを見た時に内心「その通りだ!」と思ったものです。
今後において…亀田史郎氏の情熱を求めるテーマは案外こうした場所にもあるのではないかとも思ってみたりします。
史郎氏の人生は彼のものであり、見ず知らずの私が、こうだと断言出来る様なものではありませんが…
しかしながら、同じ昭和40年生まれの亀田史郎氏に、ツッパリ世代を生きてきた同級生としてエールを送りたい気持ちもあるのも事実です。
亀田興毅君や兄弟達は史郎氏の鍛え方が良かった事もあり、どんなトレーナーに付こうとも充分に自らの能力を発揮出来る地金が出来ている様に思います。
子供達のセコンドにつく希望を絶たれた今、一抹の寂しさはあると思いますが、子供達のそれからは卒業して、精神的バックボーンとして心の支えになってあげたらそれで充分ではないでしょうか。
人の人生とは、ある面皮肉でもあります。
私がヤクザをしていた当時は、私についてきた人間に対し、私は本当に責めるに厳しい人間だった様な気がします。
他の組織の人間に負けないで欲しい…
警察の取り調べに屈せぬ根性を持って欲しい…
ヤクザの生き方から発生する信念や考え方を私についてきた人達にぶつけ、鋳型にハメ様とばかりしていたのでした。
そこへ持ってきて、若手の組長と言う事の気負いもあり『ナメられてたまるか』とピリピリした雰囲気を常に発散させていた様な気がします。
でも、人それぞれなものがある事はその後気付かされた事でもあります。
優しい心根を持つ人間に、先鋭化された考えを押しつけてもどだい無理があるのです。
そんな私について行けないと思ったのか?
私の元を夜逃げ同様に去って行った人間達もいます。
おおらかさや優しさ、人の美点を認め伸ばす事…人を束ね率いて行く上で必要な資質は、極道から堅気になったその後で私に訪れたのです。
何かにしがみつくのをやめ手放す時こそ、本当に自分にとって必要なものが(内面の豊かさ)流れ込んでくる様になるのやも知れません。
亀田史郎氏にとっての本当の意味でのリベンジはこれからなのだと思います。
熱い鉄に触れてやけどをしなければ熱さをわからないのも人間なのです。
ひとに脚の脛を思いっきり蹴飛ばされるまで痛みがわからないのも人間なのです。
こうした経験もその後の人生で必要で完璧な経験だったと必ず思える日がくると思います。
またこうした経験を恥じる必要はなんらありません…。
自分の経験がそこにある時『人の痛み』を知る事が出来ます。
亀田史郎氏も、まだ当面はマスコミから指弾される日が続くかも知れませんが…
史郎氏が再度違う形でブレイクする事を心から願うばかりです。
合掌
おはようございます。
ここのところ陽気のいい天気が続き、日中など暑さを感じるくらいですが、日が落ちると肌寒くなったりと…
それはまるで若い綺麗な女性に振り回される中年オヤジの落ち着かざる心境に似たものもあるのかも知れません(笑)
今日16日は効験抜群と言われてきた大聖歓喜天(かんきてん・ガネーシャ)ご縁日でもあります。
その昔…密教僧といえども、徳を積み学を修めた者しか拝む事のかなわなかった秘仏中の秘仏と言われています。
私などは学もなければたいした徳も積んでおりませんが…笑
一般の方は、『聖天・しょうてん』というと何か敷居の高い神の様に感じる方も多い様ですが、『ガネーシャ』というと…まるでビジュアル系の神様の様で親しみやすいと言われる方もいたりします。
聖天は賞罰の激しい神として有名ですが、中途半端に拝むくらいなら信仰しない方がいいと言われるくらいチェックの厳しい神との言い伝えもある様で…
お寺によっては信者、信徒の方に聖天の本尊を家に置いて拝む事はまかりならん!と説いているところもある様です。
お坊さんや行者の中には、この聖天や毘沙門天といった天部の神の御本尊の前を通り過ぎる時、その恐ろしさゆえに目をつぶって通り抜ける方もかつてはいたそうです。
(((;゚;Д;゚;)))
でも、これだけでは怖いばかりの神で…手を合わせていいのやら悪いのやら?
訳もわからず、敬遠モードになってしまいますよね…笑
でも、裏を返せばそれだけ迅速に効果をもたらす神であるがゆえに、恐れられた歴史もそこにはある様です。
昔の密教僧は、時には日本の国難ともいうべき時に、外敵の侵略を防ぐ為に一命を賭して登壇し祈祷した歴史があります。
また昔は、お坊さん同士がその験力(サイキックなパワー)を競い、それこそ聖天などの祈りの効果の速く出る神仏を媒介として、お互いの命の取り合いをしたダークな呪術としての歴史もあった様です。
しかしながら『人を呪わば穴二つ』という言葉は、例え法力のある僧侶でも逃れる事は出来ません。
神仏の見せる慈悲とは程遠い、こうしたところからは何も生み出されるものなどないはず…
『投げれば投げつけられる』力の連鎖、暴力の連鎖がそこにはあるだけです。
日本仏教の歴史からみれば、その裏面史とも言えるこうした事情も聖天や天部、密教の神仏のキャラクターに影響を与えているのかも知れません。
しかしこれも今や昔の話しでもあり…
宗派を問わず、僧侶が慈悲と衆生救済に生きる身である事は今も昔も変わりません。
聖天、ガネーシャは、豊饒をもたらす神でもあり、書く事をサポートしてくれる学問の神としても知られています。
それと同時に、人間が生きて行く上での障害と言うものを、前を歩く巨象が、道を踏み慣らすごとく、取り除いてしまうパワフルな神でもある様です。
仏教やヒンズー教に帰依していなくとも、スピリチュアルな観点からガネーシャを慕い敬っている人も多い様で…
特定の礼拝をせずとも、ガネーシャの恩恵を受けたと言う人も数多くいる様です。
信ずる所に『神』はやってきます。
最近、多くの方から読んでいるこちらがホロリと来る様な有り難いコメントやメッセージが相次いでいます。
本当に有り難うございます。
読者の方、コメントやメッセージを下さる方の身体健全・心願成就を世界平和・日本国安泰と共にお祈りさせて頂きます。
合掌
★マンダラ…魔断ち!
※写真は自坊金剛界、胎蔵界梵字マンダラです
ある時、若い男性が私の元を訪ねてきた時がありました。
その方は「部屋に飾るマンダラやお不動さま(不動明王)の絵を捜しているのですが、いいものが見つからなくて、何処で買ったらいいのでしょうか?」と、私に尋ねてきたものです。
「パワーブレスを離す事が出来なくて、身につけていないと不安を感じます。」と話す彼の姿をよくみると…
金回りの良さそうな雰囲気なのですが、非合法の部分で収入を得ている事が、本人は語らずとも、ありありとこちらに伝わるエネルギーに現れています。
そしてそこから発生している不安や恐れ、虚無感といったものもそのオーラに感じられ…
『自分の居る場所は違うのではないか?』と…深い部分に迷いがでている事も見てとれるのでした。
「私と縁のある神仏は何なのか?」
「仏像を置きたいが、置く場所や、拝み方はどうしたらいいのか?」と言う事を、この方は矢継ぎ早に私に聞いてきたものです。
それはまるでスピリチュアルな世界に興味を持ち始めた頃の私の姿の様でもありました。
人が、自分の霊性に目覚め、仏教で言うところの『発菩提心』とも言うべき、自らの仏性に目覚めるのも、人それぞれ色々なバターンで訪れます。
宗教にそれを求めて行く人もいれば、スピリチュアルリズムやヒーリングのスキルにそれを見出だして行く人もいるのです。
私はその方と少しばかり雑談した末に、押し入れから、巻いてしまっておいたチベットの行者が瞑想時に使用するマンダラを取り出し来て
「これを持っていきなさい」とその方に差し上げたのです。
ただ、私はマンダラを手渡しながらも内心、今後『エネルギーの浄化』とでも言うべき、大きな人生の転換期にその方が差しかかっている事や、自分のカルマに直面するであろう事を漠然とながら感じていたのでした。
私はこの方に「どんな事をしているのかは聞かないが、仏像に手を合わせたり、こうした物を部屋に置く事は、葛藤を感じる時がありますよ」と…
一言つけ加えておいたものです。
こうして、少し雑談をした末にこの方は自坊を後にしたのでした。
それから数ケ月後…その方がある事件で逮捕された事を知りました。
今の自分の姿やあり方に疑問を持ちはじめた時から、真の自分に向けてエネルギーの変容やシフトを始めるケースもある様です。
より深い自分の真実や霊性を探求する強い意欲が湧き起こり、それに類した事象や教師的役割を果たしてくれる人との出会いに導かれたりするのもこうした時期なのかも知れません。
それと同時に、今世での自分の生み出したカルマや、過去世から持ち越しているカルマやトラウマが堰を切った様に、自分の人生に噴きだしてくる時もあります。
不安と恐ればかりを増大させそれをハードな致命的な着地にしてしまうのか?
混乱を時には感じても必要必然のプロセスとしてその変化を受け入れて行くのか…
『正と負』ともいうべき対立するエネルギーが、共に同じ時期にスパイラルを描き上昇し、せめぎあう事によって自分の人生にその姿を現してくるのも人生の様です。
私自身もその経験者であり、他者にもそうした事例を見る事も間々あったものです。
そうした人生上のボーダーラインにある時に…人によっては、無性に仏像や仏画、神のシンボルの類いを自分の元に招く人も多いのです。
僧侶や行者によって開眼された仏像や仏画、マンダラを自分の元に置く時など…
空間の浄化は勿論なのですが、自分の人生の浄化の働きさえもたらす時もあるものです。
例えば、ある仏像を家に置いた途端に会社の部下の背信行為を知るハメになってしまった…
または…仏画に手を合わせる様になった途端に、自分が妻に隠していた浮気が露見してしまったなど…
(((;゚;Д;゚;)))
開運吉祥を願い、仏像や仏画を置いたものの、陰陽逆転とばかりに、自分が触れて欲しくない、生涯隠し通していたい事が明るみに出たり、未解決の問題がある事に改めて気付かされたりと…
まさに『魔断ち』とも言える自分の奥底の闇の部分を明るみに引きずり出す働きさえあるのです。
しかし…これさえも仏像や仏画がひとつの機縁として、自分の魂の奥深い要請によって引き起こされている事なのかも知れません。
私達の理性は知らずとも、魂『神』は知っているのです。
肉体を持つエゴが頭をもたげる自分の中で真の自分に対してひっかかりのある部分を…
自分に対して気付く事なく目をそらしていたい後ろめたい部分を…
時にはこうした事をめくるかの様に白日の元にさらしてくるのです。
でもこれさえも、人生を良い方向へむける為の浄化のプロセスなのかも知れません。
私の元を訪れた方とはその後会う事はありませんでしたが…
自分なりの安心立命、感謝と安息の境地に向け歩んで行く事を願うばかりです。
合掌