愛こそがチカラ!極道から僧侶へ・密教僧侶ヒーラー正仙 -1069ページ目

我が心のブッダ(お釈迦様)

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昨日東京はここ数日の天気の悪さが嘘の様に晴れ渡り、気持ちの良い一日を過ごす事が出来ました。


昨日八日は、ブッダ(お釈迦様)の誕生日


全国の多くのお寺で、お釈迦様の誕生日を祝う、降誕会や潅仏会、花まつり等が催され、晴天と相まって多くの参拝者で賑わったに違いありません。


ブッダは、ゴータマ・シッダールタとして釈迦一族の王子として生まれ…


自らの王位や妻子を捨て出家し、苦行の旅に出た事はよく知られている事でもあります。


真言密教では大日如来の具現化としての釈迦観と言うもの


釈迦は大日如来の変化身としての位置付けがされています。


その釈迦が感得した宇宙感を見事に日本で体現したのが、弘法大師空海かも知れません。


釈迦は原始仏教教団の中心であり、釈迦を慕い集まる弟子たちに対しては、教え諭す事はあっても


自らが教団の統治者でない事をハッキリ明言していたと言います。


釈迦の没後、南アジア(スリランカ)等へ南伝仏教として広まる一方では


中国から大乗仏教として日本に系譜された北伝仏教に別れ、歴史の紆余曲折、時には分裂を繰り返しながら現在に至っています。


日本の仏教に視点を転じても、顕教、密教と多くの宗派に分かれ、説く内容も別々で各統率者がいるなど


釈迦の時代のものとは全く別種のものと化しているのかも知れません。


釈迦の没後、弟子達が長い年月をかけて、釈迦の教えや残した言葉を編纂して、後世の人に伝えていった聖典や教説、例えばよく知られている『八正道』などは、現代でも、人間が生きて行く上での素晴らしい知恵に溢れています。


僧侶をしている私がこんな事を言うのはおかしく思われるかも知れませんが…


私は釈迦が残した教えや修道のカリキュラムよりも


等身大の人間『ブッダ』に深い共感を覚えたりもします。


『ブッダ』とは『覚醒した者』を意味します。


ブッダが、王位や妻子を捨て旅に出たのは、悟りへの霊感とでもいうべきものに導かれたから?


ただそれだけだったのでしょうか?


私はブッダが、それまで住み慣れた城を離れ世俗を捨て旅に出た時に、もうこれ以上ここにいても(王族としての生活)真の自分を表現出来ないという…


現代で生きる私達が、その人生の中で経験する等身大の人間としての悲しみやフラストレーションさえそこに感じたりもします。


ブッダは聖人であり聖者だったかも知れませんが、私の中では圧倒的な人間智に溢れた賢者のイメージが強いのです。


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ブッダの没後二千年が経つ中で、その物語は脚色された部分、奇跡や霊験談や神を取り込んで大きくなりつづけた部分もあるのかも知れません。


ブッダは自分が神だと言う事もなければ、自らが起こした奇跡についても語る事もせず、人々から崇められることにも関心がなかったと云います。


何度も師に付き、瞑想や真理の教えを乞いますが、誰一人としてブッダの求めるものに答えの出せる師はおらず


自らを死さえも超越する様な苦行に駆り立てて行きます。


しかしそこにもただ死への誘惑にかられるばかりの自分を感じ…
深い疲労と絶望さえも感じたのかも知れません。


人間の限界を超える苦行を重ねてきた自分を嘲笑った瞬間も訪れたのかも知れません。


でも、自分のして来た事が無に帰したと知り、全てを放り投げる様に自分の中で手放したその刹那…


空が、宇宙が、水が、空気が、木々の葉の一枚一枚が全てがひとつである事を…


宇宙の真理、今時のニューエイジの言葉で言えば、『ワンネス』とても言うべきものを身体の全細胞て受けとったのではないでしょうか…


ブッダは「一切の神仏を礼拝してはならない」と言ったとも言われています。


現代の日本仏教に照らして見て、その開祖としてこれほど矛盾している言葉はないのかも知れません。


ただ、ブッダは知っていたに違いありません。


神仏を礼拝する時に神が『それ』や『あれ』になってしまう危うさがある事を…


他の神を差別する人間の弱さを…


いたずらにそこに依存してしまい、他に神を見いだせなくなる人間の脆さを…


そしてなによりも美しい自分の内なる神に目が向かなくなる事を…


私達は家族や愛する人達や、他者に対する愛情と云うものは、大きく、時には微妙に区別し、そのスタンスや角度を変えている事に気付かなかったりもしますが、


ブッダ人は、貧富の差や職業の貴賎などに影響を受ける事なく、誰に対しても同じ愛情、同じ愛の波動で接していたに違いないのです。


私の様な凡俗の極みが偉大な求道者であるブッダの事を語る資格はないのかも知れませんが…


しかし私はブッダという聖人として後世に名を残し、真理を極めたマスターが、我々と同じ生身の人間でありながら、悟りを得て心を完成させたその足跡を見る時、


我々となんら変わらぬ、人間的な弱い心の声にさえ時には葛藤を感じながらも、ついには乗り越え悟りにいたったそのプロセスを思う時…


全ての人がそれぞれの立つ場所からブッダ『覚醒した者』になり得る可能性のある事を、二千五百年の悠久の時さえも超えて、ブッダが優しく示唆してきている様に思えてなりません。


苦行に生きる事の必要のない事を悟ったブッダは、苦行や快楽のどちらにも偏らない『中道』と言う生き方を説き始めます。


現代風の言葉を借りて言えばバランス感覚の良い生き方をする事とも言えます。


私は過去世でも、行者や僧侶だった時も多かった様で…


戒律の厳しい環境を好み、荒行や苦行や修業に価値を見出だしていた様です。


しかしながら本当の宇宙の真理、神の愛を知る事は出来なかったに違いありません。


「神とはなんだ!」「仏とはなんだ!」とその思いを神に叩きつけて、私は何度となく輪廻転生の輪の中で生まれ変わって来た様な気がするのです。


そうした思いが今世でも長い間、極道の世界で生きて来た事にも現れているのかも知れません。


ブッダが説いた神への愛は日常至るところに遍満しています。


愛する人の安らかな寝顔を見つめる時に…


子供をお風呂に入れシャンプーしてあげた時に湧き上がる至福感の中に…


ご高齢の夫婦がリュックサックを背負い、仲良く手をつなぎ旅にでる姿を見た時に感じる微笑ましさの中に…


私達はそうした時、神の目線で対象を見ているのではないでしょうか?


補助輪を外し何度も転びながらも自転車に乗れる様になった子供を見る時…


そこに小さなブッダの姿を見る事は出来ないでしょうか?


往った者よ 往った者よ

彼岸に往った者よ


彼岸に完全に往った者よ


悟りに幸いあれ


ここに智慧の心の完成を終わる


『般若心経』より

合掌

今日は毘沙門天ご縁日!

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※自坊毘沙門天立像です。


昨日は、午後よりお堂の掃除をしました。


本尊や脇侍の仏が居並ぶ密壇の前で合掌し、「これよりお掃除させて頂きます。」とご挨拶をした私でした。


大元帥明王や不動明王、毘沙門天に吉祥天、象の頭を持つ聖天(ガネーシャ)に美と豊饒のヒンズーの女神ラクシュミー(吉祥天と同体とされています)


そして翡翠で出来た聖観音


これら自坊の仏の姿と言うもの…


手を合わせ向き合えば、いつも真の自分の在るべき姿に気づかせ、引き戻してくれたその姿でもあります。


どんなに過去に修羅や羅刹の様に生き様とも…


欲得に満ちた餓鬼の道でもがこうとも…


出口の見えない無間の地獄をはいずり回ろうとも…


そんな過去の私を許し、気付きへと導き、背中を押してくれた仏の姿でもあります。


闇を照らす光りと言えば、私如きが恐れ多い表現でもありますが、どんな人間でも今あるところからやり直しや再生が出来る事、どんな人間にも変容の可能性がある事を、私なりの在り方を通し気づいて頂ければと思う今日この頃でもあります。


本日三日は毘沙門天のご縁日にあたります。


毘沙門天はその昔武将の信仰を集めた最強の守護神として崇められた歴史を持つ仏でもあります。


戦国時代の名将上杉謙信が、毘沙門天を信仰し、『毘』の字を旗印として戦った事もつとに知られるところですが…


インドでは『バイーシュラバナ』ヒンズー教では『クベーラ』と呼ばれています。


日本では鎮護国家の神としての性格を残しながらも


福を与える神として七福神の一神に数えられ、より庶民に親しまれる福の神としても信仰されてきました。


でも、もともと先勝祈願で拝まれた神だけあってか…


神話の中では夜叉や悪鬼の総大将でもあり、密教では、怖い一面を持った仏とされています


毘沙門天はその昔、敵対する者を倒す為に怨敵降伏の神として崇められた歴史もあります。


私も毘沙門天は大好きな仏であり、得度する前などは霊能者の方から「あなたは毘沙門天の守護やサポートを受けていますよ」と


よく言われた事があったものでした。


先日、たまにメッセージを下さる読者さんが「ムカデは毘沙門天のお使いさんですよ」と教えてくれたものでしたが…


私は十数年前に寝ているところを(今でも忘れないあせる)体長15センチ以上はあろうかと思われる赤黒いムカデに身体を這われた時がありました。


後にも先にもあんな大きいムカデを見た事はありません。
(((;゚д゚)))


部屋の何処からあんな大きなムカデが出てきたのか?今だもって不思議なのですが…


当時はまだ極道の世界に生きる信念も強く、かなりの『無理』も通し、いつ命を狙われてもおかしくない状況であったのかも知れません。


そうした生き方を過去にしていながら、具足円満で今日を迎える事が出来た事を考える時…


自分の高次の存在のサポートや導き、先祖の御霊も私に呆れながらも奔走してくれたに違いありません。


毘沙門天は効験が早い(加持祈祷の効き目が早い事)事で知られています。


これより毘沙門天法を勤修いたします。


ブログを始めまだ一ヶ月と少しが過ぎたばかりですが…


本当に多くの方から暖かい励ましのメッセージやコメントを頂く事が多くなりました。


本当に感謝しております。


皆様の身体健全、息災安穏を小さな自坊よりお祈り申し上げます。

合掌

おはようございます!

東京は花見シーズン全開です。
そんな事もあってか、ここ数日の寒さもなんのその、上野公園にもたくさんの花見客が訪れた様です。


花見は良いのですが、日頃はおとなしいお父さんがここぞとばかりボルテージをあげ


日頃の憂さを吐き出すかの様な奇声を上げている様子などを見ると、気の毒な気さえしたりするものです。


酔っ払って、帰りにタクシーに乗ったはいいが、車中で寝てしまい、家に帰れないどころか、目が覚めたら留置所、なんて事も今の時期には間々ある事なのかも知れません。


昔の話しですが、私がまだヤクザ渡世にいた頃…


警察の御用となり、留置所に入っていると、たまに、真夜中に街中で酔っ払って保護されたお父さんが、通称『トラ箱』と呼ばれる留置所のひと部屋に入れられたりするのですが…


留置所の構内に入ってくる時からアルコールで散々勢いがついている事もあり、うるさい事この上ありません。


留置所には私も含めたコワモテの人間が寝静まっているところへ…

「おいっ!てめえら起きやがれ!俺を誰だと思ってるんだ!コン畜生むかっかかってきやがれ!」と酔いに任せた勢いはとどまるところを知らなかったりもします。


『トラ箱』というのはトラが吠える⇔酔っ払いも吠えるというところから来ています。


ところが一晩開けると、その酔っ払って『トラ箱』に入れられたお父さんが小声で「あせるなっ、なっ、なんで私はここにいるんですか!?」と留置所の担当警察官に話しているのが聞こえたりで…笑


結局家族の方が迎えに来て無事放免となるのですが…


いやがうえでも皆の部屋の前を通っていかねばならず…


そんな時「お父さん、昨日は随分と元気だった様だけど、酔いは覚めたのかな?」」と軽くからかうと…笑


あせるす、すいませんでした。本当に皆さんご迷惑をおかけしました。」と赤面の態で土下座せんばかりに謝り、バツ悪そうに留置所から出ていったものでしたが…


でもそんなお父さんの留置所から去る後ろ姿を見ていると…


家に帰ればいい父親の様な気がして、暖かい家族の団欒が見える様でチョッピリ羨ましく、微笑ましい気持ちになったものです。


昔のとんだ与太話しをしてしまいましたが…笑


今、表では小鳥がないています。


私は朝のピリッとするくらいの冷たい空気が好きです。


朝のお勤めの前に愛犬チビと散歩に行ってきます。


今日も素敵な一日をお過ごし下さい。


合掌