義経と親鸞 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

私がご紹介する歴史の真実は、それが事実であったとしたら、皆さんの歴史観が一変する驚愕の内容なはずです。

もちろん、細かい点は別として、大まかにはこの内容が真実だと判断して書いています。全て現地調査とインスピレーションからです。

このような内容を、本業が別にあり片手間でブログ書いている私が、考えて書けるはずがありません。すべて、波動、霊性が高まったのたまものなのです。

内容を信じられるかどうかは、皆さんの波動によるのです。

それでは、今回も驚くべき歴史の真実をご紹介します。


私の好きな歴史上の人物の一人に、牛若丸こと源義経がいます。弁慶とともに誰しもが知っている人物ですね。
<WIKI:源義経>

ところが、源義経の短い生涯には多くの謎が付きまといます。

幼少期は鞍馬寺で天狗によって修行を受けた。
突如頭角を表し、腹違いの兄、源頼朝とともに行動するようになる。
平氏討伐では、人間業と思えない活躍を見せた。
源頼朝と決別し、追われる身となる。
奥州で自刃した伝わるが詳細不明
、等々です。

これ以外に伝説として、義経は津軽海峡を渡って北海道に逃れ、その後、大陸へ渡ってジンギスカンになった説もあります。私は、二年前には義経=ジンギスカン説は十分有り得ると考えていましたが、それは違いました。

日本人としては、もっと驚くべき展開になっていたのです。

源義経については弁慶の出会いとともに、源平合戦の主役の一人として語られることが多いです。

そもそも、何故、平氏と源氏が対立するようになったかと言えば、背後には全て阿修羅がいて、朝廷のサポート役として武家社会を確立しつつあった平清盛を貶めて、朝廷を混乱させだしたのがきっかけなのです。たぶん、平清盛もいい意味で何度かすり替わっているはずです。

源頼朝、源義経兄弟の登場は、阿修羅に支配されつつあった清盛、及びその後の平氏政権を、正常な状態に取り戻すためだったのです。

従って、平氏が悪い、源氏が悪いという、単純な問題ではなく、正神界VS阿修羅界(邪神界)の代理戦争だったのです。他の改竄された歴史も全てそうなのです。

阿修羅は、一般大衆に対しては憑依・ウォークインによって、また時の権力者等に対しては、すり替えという手法によって、朝廷を支配しようとしてきたのです。人類中心の文明が始まった神武天皇の頃からずっとです。

平氏政権の混乱の中、頼朝と義経は一致団結し、阿修羅の手に落ちていた平氏政権を討伐し、正常な状態に戻します。この結果が、頼朝が立ち上げた本格的武家政権の始まりである鎌倉幕府なのです。

しかし、その頼朝も、鎌倉幕府を立ち上げた1192年には、すでに最初の頼朝からすり替わっていたのです。

頼朝が、突如、義経を排除しだしたのは、1185年初め頃です。義経が平氏を討伐した直後、実質的に源頼朝が朝廷と並ぶ時の権力者トップに着いた瞬間です。

義経が、後白河法皇に平氏討伐の戦勝を讃えられたことがきっかけで、妬んだ頼朝との関係が悪化したと言われていますが、本質はそうではないでしょう。

この時点で、頼朝はすでに阿修羅の罠に落ちていたのです。

その後、義経を匿った奥州藤原氏を巻き込んだ戦いとなり、二年後の1187年には義経は自刃し、奥州藤原氏も頼朝に敗れたことになっています。

この後、頼朝は1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きます。その間には約5年の歳月がありますが、この間は、まさしく朝廷VS阿修羅との攻防であり、頼朝は当初の人物からすでにすり替わっていたはずなのです。それが頼朝、北条政子のコンビであり、朝廷をサポートするための鎌倉幕府の開設だったのです。


ここで、主題の義経に関する話題戻ります。


義経は、阿修羅の策略に惑わされた頼朝によって、奥州平泉に追い詰められたことは間違いないと思います。

ところが、そこで人生最大最後の一大演技を行ったのです。それは影武者を使った自刃です。


義経は、源義経という人間を死んだことにし、別人にすり替わったのです。

そして、そのすり替わったの人物というのが、仏教化としての後の親鸞なのです。驚くでしょう?

最澄、空海の場合と同じような流れなのです。歴史は繰り返すです。
<最澄と空海>


親鸞の幼名を見ててください。松若丸です。牛若丸の名残りを残していますよね。もちろん、親鸞にすり替わった義経が、自分で幼名を松若丸としたのでしょう。
<WIKI:親鸞>

それでは、何故、義経が仏教家になったのでしょうか?

その前に考察すべきは義経が頭角を表す前に何をやっていたかが重要なのです。

義経と言えば、平氏討伐を行ったことがまず思い浮かびますが、それ以前の不明の頃は、全国各地を巡り寺社仏閣等の結界を解いていたと推測されるのです。

全国各地に、たくさんの義経が来た痕跡があるのはそのためなのです。

(白山麓にある金釼神社)

延暦寺


金剱宮②


そういった最中、阿修羅が平氏政権を乗っ取ってしまうという事態が起き、後白河法皇がトップに君臨する朝廷も危機に陥ってしまったのです。

そこで一旦、頼朝とタッグを組み、平氏討伐に動いたのです。

ところが、前述のように、頼朝もおかしくなってしまい、自らも危機に陥ります。源義経のままではミッションをやり遂げることが難しくなり、仏教化に転身したのです。

この時点での義経は覚醒しており、常人レベルではなく神レベルの身体能力、神通力を持っていました。従って壇ノ浦の戦いでの八艘跳びや、海に沈んだ安徳天皇(実際には影武者)を救ったり、という伝説が残っていますが、これは厳然たる事実なのです。

その義経が何故仏教化になったのか?

それは、当時の時代背景が、出家僧を対象にした密教から、一般大衆を対象にした大乗仏教に移行しつつあったからです。大衆に仏教を広めることで、世の中が全く違うものになると朝廷が考えていたからです。

従って、仏教を普及させるために義経は親鸞になったのです。

ところが、偽物の親鸞が登場してしまうのです。

つづきは次回に譲ります。


最後まで読んでいただきありがとうございます。