二人の日蓮 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

前回、前々回と、源義経と親鸞、それに法然についての真実の歴史についてご紹介しました。
<義経と親鸞>
<法然と親鸞>

源義経がすり替わった親鸞は、阿修羅から法然を救うため、さらには世の中を救うために仏教家として再度立ち上がったのですが、結果的には法然とともに阿修羅の罠に嵌り、親鸞という名前すら阿修羅トップの増上慢に乗っ取られ、すり替わられてしまったのです。

それでは、本来の親鸞(源義経)は、その後どうなったのでしょうか?

ここからが、さらなる驚愕の展開になっていくのです。

本物の親鸞は、偽親鸞が暗躍しだした中で、再起するタイミングを待つため、ひっそりと活動し、全国行脚しながら結界を解いていたのです。1215~1250年くらいの間のことだと推測します。全国各地に親鸞の足跡があるのは、この時のものです。

そして、その後、1250年代になって、親鸞は歴史上重要な人物と出会うことになります。

それが日蓮(1222年~1282年)なのです。
<WIKI:日蓮>

鎌倉時代には、後世の現代に至るまで、多大な影響を与え続けることになる仏教家が登場します。

法然、親鸞、栄西、道元、そして日蓮等。

何故、この時代に、このように歴史に名を残す重要な仏教家が登場したのでしょうか?

それは、この時代が末法に入る重要な時代で、天の采配でそれまでの天皇や武将の魂が、仏教家に生まれ変わって、世の中を別方向に導こうとしていたからなのです。

その時代の流れを汲みとって、自ら親鸞に転身したのが、源義経だったということにもなるのです。

そして、この鎌倉仏教の後半に登場した超大物が、日蓮ということになります。

実は、日蓮は法然の魂の生まれ変わりなのです。法然時代、阿修羅に誘導された無念を晴らすために、天の采配で生まれ変わったのです。

凄いでしょう!普通の方には、信じられないことだと思います。

法然から生まれ変わった日蓮は、法然と親鸞が阿修羅の罠に嵌ってしまい、偽親鸞が登場し、本来の二人が意図していた教えとは異なる専修念仏が広まったことを正そうとしたのです。

現在の千葉県鴨川市小湊で誕生した日蓮は、地元の清澄寺で学んだ後、三井寺や薬師寺などを遊学します。

(誕生寺)

誕生寺①

日蓮が生まれた小湊の誕生寺

(誕生寺の幼少の日蓮像)

誕生寺②

良く知る日蓮とは雰囲気が異なる。


そして、再び
清澄寺に戻り、現代社会でも誰でも知っている「南無妙法蓮華経」というお題目を広めていきます。飛鳥時代から伝わっていた法華経にさらに独自で磨きをかけ、大衆に広めようとしたのです。

(清澄寺)

清澄寺①

若き頃の日蓮が学んだ清澄寺。

(清澄寺の日蓮堂)

清澄寺②

物凄い神気。日蓮のオーブも写っている。

有名な「立正安国論」を発表した頃(1260年)のことです。

阿修羅が広めつつあった、専修念仏の「南無阿弥陀仏」に対抗しだしたのです。

当然、阿修羅は、邪魔者の日蓮を排斥しようとします。

それらの一連の流れが、1260年から始まる松葉ケ谷法難に始まる、日蓮の数回に渡る苦難なのです。

日蓮は何度も命を落としそうになったようですが、いずれも奇跡的に助かったとされています。

ところが、この間、日蓮はどうも命を落としたようなのです。1262年頃のことだと思います。

しかし、救世主、日蓮がこのまま亡くなったとなっては、世の中は阿修羅の思う壺になります。

そこで、天は、後釜の日蓮を用意したのです。

それが、源義経がすり替わった親鸞だったのです。驚愕でしょう!

親鸞は1262年に亡くなったことになっていますが、義経はこの年に親鸞を捨て、二代目日蓮にすり替わったのです。

そして、初代日蓮の跡を継ぎ、「南無妙法蓮華経」のお題目を大衆に広めていったのです。

二代目日蓮も小松原法難や辰口法難で危機に陥りますが、そこは覚醒した人物、天の采配を受けながら切り抜けて行きます。

そして、二代目日蓮のクライマックスが、元寇の神風です。この神風は二代目日蓮が法力によって起こしたものなのです。

そうでなければ、二度も偶然のように台風は来ないです。世の中に偶然はないのです。すべて因果応報。

二年前の記事にやっとつながりました。
<神風を起こす>

千葉県の清澄寺を中心に活躍したのが初代日蓮、人生後半の山梨県久遠寺を中心に活躍したのが二代目日蓮です。二人合わせて真の日蓮なのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。