それにしても、12月に入ったというのに何だか暖かい陽射しが部屋の窓から差し込んでいた。
頭痛を忘れ、思わず掛け布団を剥ぐって、寝たまま思いきり背伸びをしてみる。吊りそうになった背中を労るように体を丸めながら、ベッドの上に座った。アルコールの分解機能が、歳とともに低下している事をひしひしと感じる。酷い二日酔いではないが、何となく体全体が怠い。
何気にミッキーの目覚まし時計を覗き込むと、午後の3時を回っていた。僅かに残された休日を今さら何に使おうか・・・。
 すると、私の胃腸が何やら下の台所から漂ってくる匂いに反応した。
 
 『この匂いは… たぶん、 母自慢のクラムチャウ ダー!』
 
飲み過ぎた翌日には… 決して食したくない代物だ。
味としては、まあまあだが具の入れ過ぎで、いつも煮物系な姿になってしまっている。今夜の夕飯は、間違いなく… あの煮物のようなクラムチャウダー。
 
今この2階の窓から飛び降りて逃げ出したら・・・。足首の捻挫だけで済むだろうか。
それとも胃腸と相談して、クラムチャウダーとの和解を試みるか。
 
急に重たくなった胃を抱えながら私は、ふっと想像してみる。
夕飯を食べながら、またいつもの結婚話。そして今夜の献立は・・・。
夕飯時におこりうる、悲惨な結末。
 
今日ほど母を恨めしく思った事はないかも。体調が万全でない時くらいは、私への嫌事は遠慮して頂きたいものだ。
結婚しろとせっつかれても相手が居ないんだから仕方ない。
それに、こんな私でも最低限の理想は持っている。それなりの条件を満たした男でないと、結婚どころか、手が触れ合うだけでも蕁麻疹ものだ。
だいたい私の理想なんて、たかが知れている。
 
 『 強くて優しい経済力のある男 』
たったこれだけの条件なのに… 。
 
この35年近く生きて来て、こんな男に未だ遭遇した事がない。
これでも若い時にくらべると、かなりの条件を外してきたつもりだ。20代の頃なんて、男の理想を書き出したら、ちょっとした一冊の文庫本になりそうな勢いだった。
そう… 20代は勢いがあったのだ。若いというだけで自信満々だった。
怖いものといえば…、 友達と遊びほおけて午前様になった時に見た、父親の怒りに震える右腕くらいであった。
 
それが今じゃ、午前様になろうが外泊しようが父親が私を心配する事もなくなっていた。
〈早くいい男が見つかるように交際範囲を広げろ!〉
… と言わんばかりの物分かりの良さ。家と会社を往復するだけの生活を、むしろ父親は心配しているのだろう。
 
30代になった途端、もう私は父親の『お姫様』ではなくなったのだ。
 
 「雪… 雪ちゃん!」
母が台所から叫んだ。返事をするのもしんどくて、自分の部屋を出てそのまま階段を駆け降りた。
 
「雪ちゃ~ん!」
鍋から手を離せず顔だけ後ろに向ける奇妙な格好で、私の名を叫ぶ母の後ろに到着した。
 
「はい、ここに居ますよ」
 
「あっ、びっくりした。まだ寝てるのかと思ったわ。夕べは帰りが遅かったでしょ」
母は心なしか、私に期待するかのように『ニヤッ』とした。
 
「昨日は会社の飲み会だから…。貴子と美奈と三人でタクシー割り勘して帰って来ただけ」
少し余裕のあるパジャマのズボンを両手でたくし上げながら母の反応を待った。
 
「飲み会、飲み会って…。会社にも男性社員は居るんでしょ?いつも、貴子ちゃんと美奈ちゃんの話しか出てこないみたいだけど…」
 やっぱり母は、むっとしている。
このまま此処に居たら何時間でも愚痴られそうな気がして、私は早々とリビング目指して退散を決めた。
 
「今頃、起きたのか?折角の休みなのに出かけんのか?」
父親が独りで将棋を指していた。
 
「うん、今日は出かけない。会社の書類を、少し整理しとかないといけないし…。」
仕事に打ち込むキャリアウーマンを装って、嘘をついてみた。
 
「書類ったって、そんなたいした事はないんだろ」
・・・ 既に父親には見透かされている。私には自慢のできるキャリアも無いし、誇れるような仕事も任されていない。その事を父親は、おそらく数年前から見抜いているのだ。
 
「僕は、そろそろ帰ります。」
 
突然、聞き覚えのない男性の声が私の後頭部を貫いた。
その瞬間、胃の奥から得たいの知れない生物が私の心臓を硬い触覚で貫くような衝撃を覚えた。
今まで味わった事のない、嫌な感じ。
 
だって、今の私の格好といえば・・・。
 
ぶかぶかのパジャマに、ぼさぼさの髪。二日酔いの寝起きのすっぴんは、まだ清掃されていない状態。
顔を洗った覚えすらなかった。
こんな無様な自分の姿を、家族以外に見せる事など有り得ない。
しかし、この家の娘であろう事を知られてしまった今・・・ 振り返り、その声の持ち主に挨拶をしない訳にはいかない。
私は祈った。どんな宗教も信用しないこの私が、すべての神々に祈りを込めた。
 
『神様、どうか素敵な人ではありませんように!』
 
恐る恐る振り返ってみると、そこには笑顔の素敵な30代全般くらいの男性が立っていた。
 
「こんにちは。雪さんですか?」
 
「あっ、あっ、そうです。」
この瞬間、私の恋は終わりを告げた。
 
初めて会い… そして初めての、会話とも付かない『あいさつ』。
付き合った訳でもないのに、この恋は終局を迎えたのである。
 
私は必死で、自分に思い込ませていた。
こんな笑顔の素敵な男性。性格までいい訳がない!きっとナルシストか優柔不断。
… でなければ女遊びの激しい、エロ男。 … でなければ多額の借金でも抱えている夜逃げ寸前のどうしようもないギャンブル中毒症!
 
だって、だって、そうじゃなければ。
こんな素敵そうな人が性格まで良くて、そこそこの経済力もあるなら・・・。
 
『それって、私の理想の男そのものじゃないの!』
 
運命の出逢いかもしれないこの人に、顔も洗っていないすっぴんを見せてしまったのなら…
もう、ギャンブル好きのエロ男に仕立て上げるしか術はなかった。
そうでもしなけりゃ、死にたい気分だ。
 
それにしても何て笑顔の可愛らしい人…。
 
『こんな人なら、きっと綺麗なモデルなみの彼女が居るはず。』
私なんて、どうせ足下にも及ばない。だったら、いっそのこと有りの儘の自分を見せてもいいじゃないかと、腹をくくった。
 
「失礼ですけど、お名前は?」
 
「田中幸輔です。雪さんの事は係長から良くお聞きしています。」
 
「父と同じ会社の方ですか?」
 
「はい、お父さんの部下になります。雪さんに会えて良かった。想像していたより、優しそうな方ですね。」
 
『想像していたより、優しそう・・・?』
父は、いったい田中さんに私の事を何て説明しているのか。
おそらく怖いとか、我が儘とか・・・。どうせ、そのへんの事だろう。
どっちみち田中さんには綺麗な彼女が居るのだから、私がどう思われようが差し支えはないはず。
そう自分に言い聞かせ、この〈運命の出逢い〉を〈それほど意味の無い出逢い〉にすり替えた。
そうすることで精神のバランスをとったのだ。
 
「早めの夕食にする?」
母が台所からリビングに顔を出してきた。
 
結局今夜の夕食は父と母、そして私と田中さんの四人で食べる事になった。
あの煮物…。いや、母お手製のクラムチャウダーもどき!
 
 
               ~次回へ続く~