世界には数多くの「9.11の思い出」がある。

オムニバス映画「11'09''01/セプテンバー11」で、ケン・ローチが描き出したのは
1973年9月11日にチリで起こったクーデターだった。
米国が糸を引いて始まったクーデターでは多くの無辜の人々が殺され、
チリから亡命した作曲家が、今度は9.11の犠牲者の家族に向かって語りかけるのだった。
ケン・ローチはいつだって、愚直なくらい、
悲しくてどうしようもなくて知りたくなかったようなことを
真面目に突きつけてくるように思う。

私の恩師・伊勢崎賢治先生が、その著書の中でアフリカでの9.11体験を綴っていた。
BBCアフリカラジオの取材で、シエラレオネの主婦が「ブラック」ジョークを放ったという。
「アメリカ政府は、ビン・ラディンを副大統領にすればいいと思います。
 シエラレオネはそれで平和になったのだから」
(アメリカはシエラレオネの和平をコーディネートした時に、
 大量虐殺を行った反政府側のトップを副大統領に据えた過去があった)



* * *

私自身の9.11は、確か高校2年の文化祭直前だった。
社会研究部の先輩が、文化祭で「号外」記事を配っていたのを覚えている。

何が悪いのか、誰が”正義”なのか、当時の私には皆目見当もつかなかった。
ただ、
沢山の犠牲を出しながら崩れたソレが、以前訪ねた建物だということが、
その建物が今は無いことが、信じられなかった。


その後、転がり落ちていくようにどんどん物騒になる世界を、
(いや、本当は最初から誰かにとっては物騒で、私に見えなかっただけなのだが、)
私は高校生として、受験生として、浪人生として時折見つめていた。

最初は「イチから学問をやり直してみたくて」外国語、
「チェチェンやチェルノブイリに行きたくて」ロシア語、を志していたのに
いつの間にか目指すのは東京外国語大学のアラビア語科になっていた。

それは、
あの事件のあと顕著になった「全てを塗りつぶそうとする様々な力」に抗いたいと、
生意気にも思っていたからだと思う。
あの人たちは危険だ。あの人たちは可哀想だ。
そう言われてしまう人達、現地の人々の素顔を、
現地語でもって拾うジャーナリストになりたいと思っていた。


大学でアラビア語を勉強して、
現地に行った結果「ジャーナリスト」になることは断念したのだけれど、
この言語をやって本当に良かったと思っている。
9.11を、自分の心の中にすとんと落とし込んでくれたのは、この言語の力だった。



いま、当たり前のことを思う。
1年365日、いつだって、多分それは世界のどこかの誰かにとっての悲劇の日で、
目立つ事件だけを嘆いていても、悲劇や、悲劇を呼ぶ種はなくならない。
色々な悲劇は連鎖することが、その経路が、この言語を通じて見えてきてしまった。
だから、この世界、この立場に居心地の悪さを感じるとき、
象徴的なあの事件を追悼しながらも、私は世界に耳を澄まさなければいけない。


毎年9月11日、自分に問い直す。
国や人々や文化、宗教を一色で塗りつぶしたりせず、
世界のどこかに埋もれている命に、丁寧にスポットライトを当て直せるように、
不条理に直面する弱い人々の気持ちに、限界があっても寄り添えるように、
一年間過ごせたかどうか。

そして、私は中東で声を拾うことはできるけれど、
他の地域については誰か「通訳」の力を借りなければいけない。
だから、声を拾おうとする人、何かを伝えようとする人に対して、いつでも謙虚でありたい。
誰かを杖にして世界を知り、自分自身も誰かの杖でありたいと思う。
それが、個人としてできる、精一杯の、世界のための追悼。


そんな、2014年の9.11。