ここのところ、「言論の自由」を考えています。
最初に明言しておくと、私は自分の頭のネジが数本外れている自覚があります。
よく言えば独創的だし、悪く言えば「空気を読もうとしているのに読めてない」。
初めてそれを感じたのは小学校一年生の時。
「新入生のために色紙で小袋を作って、中にアサガオの種を入れましょう」
と先生から指示が出たのに、私は何故か紙の上に種を置いてから紙を乗せて糊付け。
ギョウザ方式で密封されたアサガオの種の様相が周囲と違いすぎてビビりながら、
こっそり隠すように提出したのでした。
小学校五年生の時には、図工で「風を受けて走る車」を作る課題が出て、
周りが軒並み四輪車を作る中、私だけ三輪車を設計して組み立て。
出来上がったものが周りと違うのにびっくりして、
展示の時はクラスメイトの作品に隠すように並べた記憶が…。
今でこそ「しょーがないじゃん、思考回路がそうなってるんだから」と開き直っているものの、
この「あれ?自分だけおかしい?」恐怖感が、
中学校までの私を「おとなしい優等生」に仕立てていたものと思います。
若かったなー。開き直ればこんなにラクなのにね。
ま、そんなことはどうでもいいのです。
とにかく、稚拙でメインストリームから外れているかもしれませんが、
備忘録も兼ねて自分の意見を載せておきます。
----------
不勉強な私は正直、「表現の自由」制限の賛否を問う前に、
「表現の自由」が一体なんなのか、悩んでしまいました。
そもそもどうして、それが必要なのか。何のためにあるのか。
ぼんやりしたその輪郭をもう少しうまくとらえるため、
「人は何故、表現を必要とするのか」
「表現は何故、自由でなければならないのか」
を自分の力で問い直すところから始めました。
1)人は何故、表現を必要とするのか
それは「誰かと分かり合いたいから」に他ならないと思います。
言語的/非言語的、有形/無形、という枠にかかわらず、
表現の先には、必ず「相手」がいます。
「自分の存在や意見を世の中に残したいから」というのも考えたのですが、
結局それも、最終的に同じく
「誰かに伝えたい、分かってほしい」というところに行き着くのだと思います。
2)表現は何故、自由でなければならないのか
それはきっと、時の権力、社会の雰囲気、マジョリティの意見、といった圧力が
社会の多様性、人の在り方の多様性を失わせてしまうから。
「自由」はそれ自体が目的ではなく、
多様性を認め、人を輝かせるための「手段」の形だと思います。
で、このコンテキストで「表現の自由」という言葉を私なりに噛み砕くなら、
「他の誰かと理解し合うために、
色々な内容を様々な形で伝えようとすることを、人に許してあげよう。
そうすることで、どんな人でも生きやすい豊かな社会になるから。」
ということだと思うのです。
そして、改めてここで、
「他の誰かと理解し合うために、
色々な内容を様々な形で伝えようとすることを、人に許してあげよう。
そうすることで、どんな人でも生きやすい豊かな社会になるから。」
の中で、「内容」や「形」に制限が必要なのか、という点を考えてみます。
そうすると結局、YES/NOで一刀両断できる問題じゃないんじゃないか、
という軟弱な意見に行き着くのです。
それは「他の誰か」として誰を想定しているのかで、ケースバイケースに決まること。
例えば、
限られた人にしか理解されなくていい、というならば
分かり難くて過激で、人を傷つけてしまうような内容や形になるのでしょう。
その表現は、結果として限られた一部の人にしか受け入れられないだろうし、
多くの人を動かして社会を変える、ということにはならないでしょうけれど。
多くの人に共感してほしい、というならば
分かり易く、他人をはっきりとは傷つけない内容や形になるのでしょう。
もし共感だけでなく、新しい行動や変化を起こしてほしくて発信する表現なら、
人を傷つけない、それでいて何かが心に残るような内容や形になるのでしょう。
そしてその裏にはきっと、多くの自制と推敲が、自然に生まれるように思います。
今のシャルリ・エブドは、中東で一時期を過ごした私には前者のように見えます。
ヘイト・スピーチの類も、同様に前者だと思います。
彼らは別に、本当に世の中を変えたい訳ではないし、そんな責任は負えない。
ただ、発散してスッキリしたいだけなんじゃないかと、そう感じてしまうのです。
(一部の左翼系運動にも同じことを思いますが。)
私は、マスコミによる問題提起という仕事は、後者であると思っています。
プロだからこそ、自制して、有限の枠の中から無限の共感を立ち上げるのではないかと。
表現の自由が保障されているから何でもかんでも表現してしまえ、というのは、
二流のすることであるように思えて仕方ありません。(そう、私みたいな。笑)
最後に。
「テロの悲劇」という追い風を受け「言論の自由を追い求める風潮」が社会的圧力化し、
本来の「言論の自由」が目指す状態の真逆へと社会を動かしてしまわないことを
切に願います。
もう一つ。
不勉強な私に、どなたか「表現の自由」を
小学生でも分かるようなフレーズで説明してください。苦笑
稚拙ながら、備忘録まで。
最初に明言しておくと、私は自分の頭のネジが数本外れている自覚があります。
よく言えば独創的だし、悪く言えば「空気を読もうとしているのに読めてない」。
初めてそれを感じたのは小学校一年生の時。
「新入生のために色紙で小袋を作って、中にアサガオの種を入れましょう」
と先生から指示が出たのに、私は何故か紙の上に種を置いてから紙を乗せて糊付け。
ギョウザ方式で密封されたアサガオの種の様相が周囲と違いすぎてビビりながら、
こっそり隠すように提出したのでした。
小学校五年生の時には、図工で「風を受けて走る車」を作る課題が出て、
周りが軒並み四輪車を作る中、私だけ三輪車を設計して組み立て。
出来上がったものが周りと違うのにびっくりして、
展示の時はクラスメイトの作品に隠すように並べた記憶が…。
今でこそ「しょーがないじゃん、思考回路がそうなってるんだから」と開き直っているものの、
この「あれ?自分だけおかしい?」恐怖感が、
中学校までの私を「おとなしい優等生」に仕立てていたものと思います。
若かったなー。開き直ればこんなにラクなのにね。
ま、そんなことはどうでもいいのです。
とにかく、稚拙でメインストリームから外れているかもしれませんが、
備忘録も兼ねて自分の意見を載せておきます。
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不勉強な私は正直、「表現の自由」制限の賛否を問う前に、
「表現の自由」が一体なんなのか、悩んでしまいました。
そもそもどうして、それが必要なのか。何のためにあるのか。
ぼんやりしたその輪郭をもう少しうまくとらえるため、
「人は何故、表現を必要とするのか」
「表現は何故、自由でなければならないのか」
を自分の力で問い直すところから始めました。
1)人は何故、表現を必要とするのか
それは「誰かと分かり合いたいから」に他ならないと思います。
言語的/非言語的、有形/無形、という枠にかかわらず、
表現の先には、必ず「相手」がいます。
「自分の存在や意見を世の中に残したいから」というのも考えたのですが、
結局それも、最終的に同じく
「誰かに伝えたい、分かってほしい」というところに行き着くのだと思います。
2)表現は何故、自由でなければならないのか
それはきっと、時の権力、社会の雰囲気、マジョリティの意見、といった圧力が
社会の多様性、人の在り方の多様性を失わせてしまうから。
「自由」はそれ自体が目的ではなく、
多様性を認め、人を輝かせるための「手段」の形だと思います。
で、このコンテキストで「表現の自由」という言葉を私なりに噛み砕くなら、
「他の誰かと理解し合うために、
色々な内容を様々な形で伝えようとすることを、人に許してあげよう。
そうすることで、どんな人でも生きやすい豊かな社会になるから。」
ということだと思うのです。
そして、改めてここで、
「他の誰かと理解し合うために、
色々な内容を様々な形で伝えようとすることを、人に許してあげよう。
そうすることで、どんな人でも生きやすい豊かな社会になるから。」
の中で、「内容」や「形」に制限が必要なのか、という点を考えてみます。
そうすると結局、YES/NOで一刀両断できる問題じゃないんじゃないか、
という軟弱な意見に行き着くのです。
それは「他の誰か」として誰を想定しているのかで、ケースバイケースに決まること。
例えば、
限られた人にしか理解されなくていい、というならば
分かり難くて過激で、人を傷つけてしまうような内容や形になるのでしょう。
その表現は、結果として限られた一部の人にしか受け入れられないだろうし、
多くの人を動かして社会を変える、ということにはならないでしょうけれど。
多くの人に共感してほしい、というならば
分かり易く、他人をはっきりとは傷つけない内容や形になるのでしょう。
もし共感だけでなく、新しい行動や変化を起こしてほしくて発信する表現なら、
人を傷つけない、それでいて何かが心に残るような内容や形になるのでしょう。
そしてその裏にはきっと、多くの自制と推敲が、自然に生まれるように思います。
今のシャルリ・エブドは、中東で一時期を過ごした私には前者のように見えます。
ヘイト・スピーチの類も、同様に前者だと思います。
彼らは別に、本当に世の中を変えたい訳ではないし、そんな責任は負えない。
ただ、発散してスッキリしたいだけなんじゃないかと、そう感じてしまうのです。
(一部の左翼系運動にも同じことを思いますが。)
私は、マスコミによる問題提起という仕事は、後者であると思っています。
プロだからこそ、自制して、有限の枠の中から無限の共感を立ち上げるのではないかと。
表現の自由が保障されているから何でもかんでも表現してしまえ、というのは、
二流のすることであるように思えて仕方ありません。(そう、私みたいな。笑)
最後に。
「テロの悲劇」という追い風を受け「言論の自由を追い求める風潮」が社会的圧力化し、
本来の「言論の自由」が目指す状態の真逆へと社会を動かしてしまわないことを
切に願います。
もう一つ。
不勉強な私に、どなたか「表現の自由」を
小学生でも分かるようなフレーズで説明してください。苦笑
稚拙ながら、備忘録まで。