※当ブログの内容はあくまで個人的な見解であり、
 執筆者の所属先などには一切関わりがありません。

メディアや政権が、これまで「イスラム国」と呼んでいたものを
「IS」だとか「ISIL」だとか「過激派組織IS」だとかで
呼ぶようになったらしい、というのをちらほらニュースで目にします。


理由は「イスラーム教徒への偏見が生まれないように」とか、
「国じゃないから」ということだそうですが、
私から見れば「イスラム国」も「IS」も、両方変わらないように思います。
さらにいえば、なんだかメディアや政権にバカにされているように感じます。


だって、どのみち「イスラミック」という単語が入っているのは変わらない。
それに略語を使おうが、アルファベットの頭文字を取ろうが、
調べてみれば「イスラーム」と「ステート(行政、国)」が入っていることは
分かるわけです。

今日日、みんなスマホを持っていて、簡単にグーグルで調べることができるのに、
略して問題を隠した気になっている…のであれば、
それは「どうせ市民は調べもしないし、疑問も持たないでしょ」と
言っているも同じじゃないかと、正直感じるわけです。
私の認識、誤ってますか?




本当は、呼称よりももっと大事な議論があるわけです。
いわゆる「イスラム国」はイスラームの教義から自然発生したものではなく、
実際に多くの敬虔なムスリムたちが大ブーイングを送っている現実の中、
「どうしてソレが生まれてしまったのか?」という点です。


(私はアラビア語・トルコ語圏での呼称「ダーイシュ」を使うので、
 今後はそのように呼んで話を進めます。
 ちなみにアラビア語で ISISと略しているような単語です。
 本当に「隠す」ならここまで隠してみたらいいんじゃないかと思います。)


別に、私は全くもってダーイシュの肩を持ちたいわけではありませんが、
それでも思うのです。
もし、欧米が、2001年から続く中東との関わり方を「誤って」いなかったら、
ダーイシュは生まれなかった、と。
少なくとも、彼らに「人々の憎しみ」という栄養分や
戦闘の大義を与えることはなかったはずです。

イスラーム文化圏に踏み入るなら、イスラームの尊重は重要だし、
独裁国には、独裁国なりの民主化プロセスがあるわけです。
中東の人々の声に耳をすませると、
それを無視した欧米への怒りが聞こえてきます。

もっと直接的にいえば、こうです。
「欧米、とくに米国は、中東において主権ある国家と人権を蹂躙しすぎてきたし、
自分たちに都合の良いように、あっちこっちへと肩入れしすぎてきた。
あいつらは許せない、信じられない」と。


こう発言すれば、私は多分、今の日本では
とても「左翼的」で、「現政権に批判的」な、
「プロ市民」だと目されるのでしょう。
もう、その点は諦めています。どうせ私は左翼です。左翼嫌いの左翼。


ただ、議論をすることは諦めません。
日本は今後の対中東政策において、
欧米についていくのか、それとも独自路線を探るのか、という議論です。
この結論で、今後の日本が中東世界でどう見えるか、ということが
大きく変わってきますし、
海外の日本人、そして国内の日本人が直面するリスクも左右されます。
ですから、どういう結論でもいいから、決定をする前に、
市民が議論を尽くすべきです。政権に任せずに。



この点の議論へと市民を導いていかないならば、
日本のアカデミックも、メディアも、死んでいるも同然です。

そして、議論が起こらない状況をただ見守っているのであれば、
市民団体も、同罪です。