80年以上前に創られたアメリカ産白黒映画のワンシーンが、最近頭から離れない。観たのは10年以上も前なのに。


「西部戦線異常なし」で、戦場帰りの主人公の青年が、母校の先生と学生たちに戦争のことを話すシーン。

学生の目は、どんな勇ましい話が出るのか、どうやって敵を懲らしめて勝ち進んでいるのかを聞きたくてキラキラしている。一方で主人公の口からは、惨めな話しか出ない。

誰も聞きたくない話しかできない彼は所在なくて、休暇を切り上げて戦線に戻る。それで、撃たれて死ぬ。土の上に舞い降りた、蝶に手を伸ばしたばかりに。


私たち、なんでおなじことしてんのかなって、何度も思う。しかも無人機を駆使した現代の戦争は、「こっちサイド」出身の語り部すら無くしている。なんとなく攻撃が成功しているような報道の中で、現実に残るのは「惨めな遠い犠牲者」たちだ。

銃弾に貫かれた傷口のかたちを、吹き飛ばされた肉片を、黒焦げになった小さな塊を、生きた意味なんて無かったみたいに命が奪われる不条理さを、みんな見たい・知りたいとは思わない。みんなが何となく大好きな国連の、レポートにすら載っている事実なのに。


こんなに情報源の溢れた社会で、たった一、二語を検索すれば出るリアルな画像より、キュレーション・サイトの、読んだ一分後に忘れるような情報の方が視線が集まるのは、一体何故なんだろう。

それで、言葉だけは言うんだ。「こわいね」「かわいそうだね」「でも仕方ない」って。

その狭間にいて、何をしたらいいのか分からず気が狂いそうに思うことが最近増えた。

手ぬるい文化情報なんて呟いてないで、もっとリアルな話をしたほうが良いだろうか。

もうすぐ一歳四ヶ月になる宝物の寝顔を眺めながら、誰の宝物も黒焦げになることのない社会の作り方を、私ができる貢献のことを、途方もない気持ちで考える。