現代剣道の基礎となった剣術流派の一つである直心影流は、その由来書によると、鹿島神宮に伝わった剣を伝えているとされています。

1.流祖 松本備前守政元  (分派によっては杉本)
2.上泉伊勢守秀綱
3,奥山休賀斎公重
4.小笠原源信斎長治
5.神谷傳心斎真光
6.高橋真翁斎重冶
7.山田一風斎光徳
8.長沼四郎左衛門尉國郷
(以下略)

注)武道振興會さんの系譜を参考にさせていただいていますが、個人の名称は一般的なものに、若干の間違い等については特に注記せずに変更しています

さて、鹿島神宮の剣術を祖に置ことは新当流や天真正伝神道流と大きく変わるものではないのですが、この系譜の怪しさは実は有名です(鹿島神傳直心影流の関係の方々には申し訳ありませんが)。たとえば、軽米氏の:直心影流の成立とその伝系及び伝承に関する一考察によると、8番目の長沼四郎左衛門国郷がかなり多くの部分を創作しているようです。

この論文にもある通り、1の松本備前守→2の上泉伊勢守は、同じく新陰流の流れを継ぐ他の流派にはない伝承です。2の上泉伊勢守→3の奥山休賀斎(奥平急賀斎)は、奥平家の伝書にあるのでこれは確かでしょう。

この記事での論点は3の奥山休賀斎(奥平急賀斎)→4の小笠原源信斎です。

1.年齢による疑惑
戦国未来さんによると、奥平急賀斎が徳川家臣に剣を教えていたのは、天正2年(1574年)11月から天正10年(1582年)10月とのことなのですが、前回も書いたとおり小笠原源信斎は1570年頃(武道振興會さんのサイトによると1575年頃)の生まれなので、直接師事して免許皆伝となるには若すぎます。 12歳ではまだ体もできていません。さらに小笠原与八郎と同じく東退却組であれば、師事する余地さえありません。
他のサイトに上泉伊勢守に直接師事したとの説も載っていますが、同じく年齢から考えにくいものと思います。


2.小笠原源信斎 目録による疑惑
小田原市立図書館には、「 小笠原源信斎『真之心陰兵法目録』寛文10 年」が所蔵されているとのことです。最後の署名の部分について紹介されている方の資料によると、「小笠原上総入道源玄信義晴」との名乗りが見えます。この目録は1670年とのことなのでこれは源信斎の2代目か3代目で、初代の内容を引き継いでいるものと思われますが、この名のりはとても怪しいものです。

(1) 上総入道  
  上総介は代々の今川家当主の官位の一つであり、高天神小笠原家が名乗るとは思えません。上総守はさらに高い官位であり、はったりといわざるを得ません。もっとも小笠原春儀(高天神城を乗取った人)の正室は今川上総介氏親の娘ですが。
(2) 通字
  長や氏、與ではなく「義」を名乗っています。高天神小笠原氏の中で「義」を通字にしている家はないように見えます。

(3) 金左衛門

  高天神小笠原家譜・高天神城記を通じて金左衛門と名乗った小笠原氏は見えないようです。ただしこれはたまたま文献に残っていなかった可能性もあります。



3.指導体制についての疑惑

西郷市郎左衛門と市川門太夫の記事に書いた通り、横須賀城での剣術の指南役は西郷市郎左衛門だったようです(その後は木村彦左衛門である旨が南紀徳川史に見えています)。 小笠原与八郎が徳川方に残っていたのであれば、浜松に人質でいて奥平急賀斎に直接師事したとの線もありますが、与八郎は既に武田側に走っており人質の価値はなく、横須賀城下にいたと見るのが自然です。
 


上記のことを考えると、小笠原源信斎長治が、たとえ名乗っている通りの出自であっても、奥山休賀斎(奥平急賀斎)に直接師事した可能性は極めて低いと考えます。

一方で先の小笠原玄心斎の目録の内容は、上泉伊勢守のものとほぼ同じとのことで、小笠原源信斎の剣は 同じく新陰流の流れを継いだものであったようです。これは西郷/市川の話に「しない」が登場していることと一致します。さらに市川が「しないの中間を持って」相手をしたとのエピソードがあることから、袋しないであった可能性は高いように思います。

そうであれば奥平急賀斎の弟子に間接的に師事した可能性は無視できないように思います。たまに急賀斎が時に一手教授してもらった可能性もありますが、、、


なお、大須賀康高には 諸岡一羽門下の土子泥之助や水谷八弥が仕えたとされていますが、南紀徳川史等での記述は今のところ見つけていません(田宮流については記述がありますが)