すっかり間が空きましたが、いくつか備忘もかねて書いていきます。

 

「松下三十郎元綱所持之松下家系図写」 (与板藩の松下氏が所持していたもの)によると下記の記載があり、三十郎重綱に嫁いだ小松姫(稲)の妹の名前は「おいと」のようです。

 

松下元綱息三十郎重綱妻は本多中務大輔忠勝娘(俗名 於以登 冷雲院 )

 

一方で、この三十郎重綱とその息子の言綱の記載は、以前触れた三人重綱の部分なのですが、保綱家系図/寛政重修諸家譜の記載と異なっています。本多忠勝の部分の記載とは整合しているので信頼するに足るとは思いますが。

 

下記の家系図は寛政重修諸家譜の一部をつぎはぎしたものです。

作ってみてから気づきましたが 小松姫が2回出ているような気がする、、、、

 

 

 

 


もう元号も変わってしまいましたが、相変わらずマイペースで調べたことを記載したいと思います。

以前落合氏については、高天神記での名前の記載がなく、落合左平次は遠州の出身ではないと思われる旨の記述( 信濃先方衆としての落合氏)をしています。 

1.概略:
さらに他の人も含め遠州の落合氏の活動について調べていたところ、下記の二つの記述があることに気づきました。

(1)落合権守
昔東海道は小夜の中山に出没したやいばのキジなる盗賊に差し向けられた落合権守とその部下の進士清蔵が、討伐に失敗して遠州に住んだとの言い伝えがあるようです。カワサキ機工さんのお茶街道の日坂に関する記事 に、わかりやすい説明があります。時期は平安時代のようです。

(2)掛川 松葉城
掛川史稿の乙編、奥野村(現在の掛川市大野)の長松院の記述に落合氏が出てくることに気づきました。
Google Bookのリンクではこちら.

ここには落合氏が出てきます。
a. 川合(河合)宗忠という武将が掛川の倉真、 松葉城の城主だった。
b. 川合宗忠は 東遠州の有力豪族である勝間田氏、鶴見氏と争った。
c. 川合宗忠の配下に落合九郎左衛門久吉という者がおり、これが川合宗信を裏切ったので、川合宗忠は敗北して滅亡した。
d. 日坂近辺の落合氏はこの落合九郎左衛門久吉の子孫であったので、この話を知って川合宗忠を供養した。
e. 菊川市高橋の正林寺の鐘にも、川合なにがしが性海坂(しょうかいざか?)で戦って敗れたとの記載がある(掛川史稿の段階でこの鐘は既に失われていたので詳細不明)


なお、掛川史稿ではここまでですが、勝間田氏、鶴見氏はcの川合宗忠が打たれた後 すぐに今川と伊勢宗瑞に駆逐されてしまいます。井伊谷に逃亡した勝間田氏の一族がおんな城主直虎にも出ていました。


2.位置関係

話に出てくる位置関係がばらばらです。
まず、落合権守が出てくるのがまず日坂で、菊川市からだと西方の山を越えて北側になります。小夜の中山の山の中(日坂からだと東海道の東側)で山賊、という話であれば、もっと東側の潮海寺ぐらいに根城があるのは理解できます。落合氏の多い本所はもっと南側です

一方で、掛川の倉真(くらみ)は、新東名の方に近く、日坂よりもかなり北側です。
もし川合氏が「河合氏」であるならばその本拠は掛川どころかもっと磐田に近い方です。倉真でも鶴見氏や勝間田氏の近隣とはとても言えません。

3.時期
長松院は、今川氏が滅んだ川合氏の菩提を弔うためにサポートしたのだと考えます。そうすると、掛川史稿の中に記載のある明応5年(1496年)が川合氏の滅んだ時期で、落合左平次が活躍した時期の約80年ぐらい前でしょうか。

4.考察
川合氏は河合氏だとすると、松葉城にいたのは今川家による人事配置でしょう。落合氏は土着を活用したかその際に連れてきたのかわかりませんが、この時期の遠州からは、横地氏、勝間田氏、原氏やその周辺の一族が族滅&逃亡の憂き目にたくさん遭っているため、落合氏が信濃に逃亡していったとしても驚くことはなにもないように思います。 そして武田勝頼の配置で遠州に戻ってきても。

5.当面の結論
上記から考えて、やはり落合氏が信州から来たことを否定するほどの根拠はないように思います(単に出戻りになっただけ)。

6.蛇足
高橋の正林寺の鐘の記載の話が正しければ、河合宗忠が亡くなったのは松葉城ではなく、今川義忠の亡くなった塩買坂(旧小笠町高橋と旧相良町の間)であることになります。もっと北側の潮見坂(旧菊川市潮海寺近辺)であればもう少しわかりやすいのですが、そうするとわざわざ高橋の鐘に刻む必要がはないですよね。 同じく掛川市の北側の幡鎌が新野氏の部下であったのともなにか関係があるのかもしれません。塩買坂での一戦で一緒だったとか。
 


昨年9月に出版された金子拓氏著「鳥居強右衛門」の落合左平次についてさらに考察します。

前回のポイントは下記です
1. 遠州の出身
2. 花倉の戦いに参戦した (ここは徳川方とは書いてない)
3. 長篠の戦いで 戦功をあげ、篠島才三とともに徳川家康に褒められた(寛政譜)
4. 高天神城攻め(天正4年)にも参加して戦功をあげた
5. 駿河及び遠州に領地700石を有した
6. 子孫は頼宜に従って紀州に行った

江戸落合家の差出による 寛政譜は信頼できるのか?

江戸の落合家は、左平次の生前に独立していますが、紀州家とは仲がよくないとの記載があります。旗が紀州家に継がれたのも、江戸の落合家が左平次となんらかの仲たがいをしていたからではないかと推察できます。
おそらく落合家の来歴についても江戸落合家の初代(左平次の子)はあまり伝えなかったのではないでしょうか。このことは花倉の戦いを武田方とはっきり書いてないことからも推察されます。寛政譜では、今川家の家臣を中心に今川に仕えたのちに、武田に仕え、その後徳川につとめた旨が平然と書いてあるものが多く、花倉の戦いの記載を控える理由はありません。

落合左平次は遠州出身なのか?

寛政譜では遠州出身となっており、現在もっとも落合姓が多いのが菊川市であること、松下常慶の正妻が「落合蔵人」で落合姓であることから、一見これは妥当そうに見えます。しかし、高天神城記には徳川方の「落合」姓の武将はでてきておらず、高天神城の攻防前に落合氏がこの近辺にいた気配はありません。花倉の戦いに参加できる勢力が徳川方に寝返ったとして、長篠の戦い前の高天神城の攻防に現れないのは不自然です。武田方であることを考えると、遠州出身ではないのではないかと思われます。

「戦国大名と国衆」にみる武田氏家臣 落合氏

武田家臣なら武田の本をみれば、ということで、平山優氏の「戦国大名と国衆」をみてみると、当然のように落合氏の記載があります。35ページの地図によれば、落合氏の領地は栗田氏の若干北側、葛山城です。184ページによると弘治3年(1557年)この上杉方であった落合氏の葛山城は武田方に落とされたが、落合遠江守は武田側について所領を安堵されたと記載されています。

花倉城攻めに参陣した落合氏は、この落合遠州守の一族である可能性の方が高いように思います。 この「遠江守」が遠州出身との誤解を招いたのではないでしょうか。滅亡した落合氏が牢人として武田に仕えたり遠州に来た可能性も0ではありませんが、兄弟で記載されており一族で参陣したように見えます。


長篠の戦いの前の情勢
奥平氏は徳川方に寝返ったものの、遠州では前年に高天神城を落とした武田の方が優勢であったと思われます。落合氏が奥平氏の傘下でないのは明らかなので、そもそも長篠の前に徳川方につくような機会はそもそもなかったのではないかと思います。

高天神城攻めの戦功の不合理
高天神城攻めの戦功は、長篠の戦いの翌年になっていますが、そもそもこの年は家康は横須賀城を築いて反攻にとりかかったばかりです。もちろん城攻め関係の小競り合いはありますが、家康に従軍していたのであれば、その後の城攻め関係の戦功がないのは不自然です。この戦功は、武田方だったときのものではないでしょうか。

信濃先方衆としての落合氏
高天神城の攻防では、上記の記載を除けばどちらの戦功についても落合氏の名前はありません。落城時の首リストにも名前がない。では一体いつ菊川市近辺に現れたのか?
以前の記事で書いたように、同様に忽然と現れた国衆が栗田氏です。落合氏の領地は栗田氏の北方でさらに上杉との国境付近ですので、落合氏もまさに信濃先方衆です。
となれば、栗田氏と同様、落合氏も遠州小笠原氏やその配下と交代で遠州に配備されたと推測できます。現在の長野県に落合氏が少ないこともこれを補強する材料です。

徳川氏への帰属時期
落合氏の多い菊川市本所付近は、栗田氏のいた内田よりも高天神城から遠く、諏訪原城よりですので、諏訪原城落城の影響をもっと強く受けていたでしょう。結果として、栗田氏よりも早く徳川方についたのではないでしょうか。

以上あまり根拠は強くないのですが、鳥居強右衛門の覚悟に感動した落合左平次が長篠の戦い時点で武田方だったことは十分考えられるように思います。
 

昨年9月に出版された金子拓氏著「鳥居強右衛門」を正月に読みましたので、遅ればせながら紹介と感想と若干の考察を書きます。

この本は 長篠の戦いで処刑された 奥平家の家臣 鳥居強右衛門 とその周辺の人物を資料から丁寧に追っています。特に、現代でも鳥居強右衛門を有名にした、「鳥居強右衛門の旗の人」こと落合左平次と旗の謎についてはかなりのページを割いて丁寧に説明しています。


読みどころとしては、次のような点でしょうか。
1.鳥居強右衛門に関する考察
2.背旗の使われ方が別の資料を基に考察されている。
3.旗をのこした落合家は 江戸と紀州にそれぞれ分かれて存続していたと
4.江戸側は 左平次が現役の時に慶長4年に家康・秀康に召し出されで独立した家系になっていた。
5.紀州側は、家康に仕えた後、頼宜について紀州にいった「駿河越」の家系であり、遺品はこちらに継がれているが、2代目が幼いうちに左平次道次が亡くなったため、前半生については詳しく残っていない。
5.東大の史料編纂所に保管されている旗は初代であるが、代々作成されており、5つが現存している
6.それぞれの来歴とその考察、(その逆さ磔説含む)も丁寧に解説されている。

これで寛政譜(江戸側で、原則として旗本・大名しかのっていない)と南紀徳川史(紀州の家臣しかのっていない)の両方に落合家が載っている理由がわかりました。

この寛政譜と紀州側の記録をつなぎ合わせると下記になりますが、にわかに信じがたい記述があります。
1. 遠州の出身
2. 花倉の戦いに参戦した (ここは徳川方とは書いてない)
3. 長篠の戦いで 戦功をあげ、篠島才三とともに徳川家康に褒められた(寛政譜)
4. 高天神城攻防にも参加して戦功をあげた
5. 駿河及び遠州に領地700石を有した
6. 子孫は頼宜に従って紀州に行った

この3が正しいとすると、なぜこの旗が残っているのかは「戦場で放置された鳥居強右衛門の亡骸をみた」という、現在流布している話とはきわめて違う話になってしまいます。

以前にも落合左平次を取り上げた当ブログとして、これは考察せずにはいられませんが、これはまた後日に。


 

 

あけましておめでとうございます。(すっかり遅くなりましたが)

さて、塩の道・秋葉街道は、塩の産地である相良を発し、高橋、赤土、平川と進んで、川(菊川の支流の牛淵川)を渡り内田に進んでいきます。内田の中心は、平尾八幡宮であった、と遠江国風土記にでているようです。

 

内田は、古来から人が居住し交易や政治の拠点になっていたようです。圓城寺(三井寺)の荘園でもあり、巴御前に討ち取られた内田三郎 の出身地です。内田氏は内田の中でも高田の方に屋敷があったようなので、この平尾八幡宮とは若干場所が離れています。

その後内田氏は鎌倉時代に中国地方に栄転し、今川時代の支配者はよくわかりません。

さて、平尾八幡宮の神主の家系から江戸時代に国学者の 栗田土満(くりたひじまろ)が出ています




学者を出せるだけの有力者の家系のはずで、おそらく江戸時代初期には鷲山傳八や黒田氏と同クラスの勢力があったように思えます。

一方、高天神城が武田勝頼に攻められた際の遠州の国衆のリストに栗田氏の名前はありません。高天神城が徳川方に攻められた際の武将として栗田刑部丞鶴寿の名がありますが、平山優氏の「武田氏滅亡」によると信濃の国衆、特に善光寺の別当となっています。

以前掛川の図書館で栗田土満に関する本をみたときには、「先祖代々平尾八幡宮の神主の家系」になっていてその整合性がずっと謎だったのですが、昨年秋に読んだ「栗田土満略伝」によると、栗田家の家系図上は、このなくなった栗田鶴寿の次男及び3男が内田に定着した、となっているようです。他に2系統ある、とも。

そして、昨年末に平山優氏の最新刊の「戦国大名と国衆」には、信濃先方衆として、水内郡栗田城の国衆 栗田氏が兵数150騎でバッチリでています(29ページ22番)。150騎は、武田軍団のなかでも真田に次ぐ有力な集団です。

また、「先方衆」とは敵方(先方)から味方についた勢力であるとの解説があり、敵との境目であって、家中で分断されていたり、2つの競合勢力の両方に従属していた例もあるようです。実際、栗田氏についても里栗田(善光寺別当)は武田方でも、山栗田(戸隠山健光寺別当)は上杉側との記述があります(P184)。

ということは、やはり武田方に高天神城が落ちたあと、境目の国衆であった栗田氏の一部を 遠州に移住させたととるのが理にかなっているように思います。栗田土満の家系図では、栗田鶴寿の次男三男は落城時に城から逃げ出した、となっていますが、多分そんなことはなく、もっと早く徳川方についたのではないでしょうか。そうでなければ、鷲山氏や黒田氏レベルの優遇は徳川方からは得られないでしょう。

 

先方衆は、そういうしたたかな存在だったのだろうか、という感想をもって「戦国大名と国衆」を読み終えました。