昨年9月に出版された金子拓氏著「鳥居強右衛門」を正月に読みましたので、遅ればせながら紹介と感想と若干の考察を書きます。

この本は 長篠の戦いで処刑された 奥平家の家臣 鳥居強右衛門 とその周辺の人物を資料から丁寧に追っています。特に、現代でも鳥居強右衛門を有名にした、「鳥居強右衛門の旗の人」こと落合左平次と旗の謎についてはかなりのページを割いて丁寧に説明しています。


読みどころとしては、次のような点でしょうか。
1.鳥居強右衛門に関する考察
2.背旗の使われ方が別の資料を基に考察されている。
3.旗をのこした落合家は 江戸と紀州にそれぞれ分かれて存続していたと
4.江戸側は 左平次が現役の時に慶長4年に家康・秀康に召し出されで独立した家系になっていた。
5.紀州側は、家康に仕えた後、頼宜について紀州にいった「駿河越」の家系であり、遺品はこちらに継がれているが、2代目が幼いうちに左平次道次が亡くなったため、前半生については詳しく残っていない。
5.東大の史料編纂所に保管されている旗は初代であるが、代々作成されており、5つが現存している
6.それぞれの来歴とその考察、(その逆さ磔説含む)も丁寧に解説されている。

これで寛政譜(江戸側で、原則として旗本・大名しかのっていない)と南紀徳川史(紀州の家臣しかのっていない)の両方に落合家が載っている理由がわかりました。

この寛政譜と紀州側の記録をつなぎ合わせると下記になりますが、にわかに信じがたい記述があります。
1. 遠州の出身
2. 花倉の戦いに参戦した (ここは徳川方とは書いてない)
3. 長篠の戦いで 戦功をあげ、篠島才三とともに徳川家康に褒められた(寛政譜)
4. 高天神城攻防にも参加して戦功をあげた
5. 駿河及び遠州に領地700石を有した
6. 子孫は頼宜に従って紀州に行った

この3が正しいとすると、なぜこの旗が残っているのかは「戦場で放置された鳥居強右衛門の亡骸をみた」という、現在流布している話とはきわめて違う話になってしまいます。

以前にも落合左平次を取り上げた当ブログとして、これは考察せずにはいられませんが、これはまた後日に。