昨年9月に出版された金子拓氏著「鳥居強右衛門」の落合左平次についてさらに考察します。

前回のポイントは下記です
1. 遠州の出身
2. 花倉の戦いに参戦した (ここは徳川方とは書いてない)
3. 長篠の戦いで 戦功をあげ、篠島才三とともに徳川家康に褒められた(寛政譜)
4. 高天神城攻め(天正4年)にも参加して戦功をあげた
5. 駿河及び遠州に領地700石を有した
6. 子孫は頼宜に従って紀州に行った

江戸落合家の差出による 寛政譜は信頼できるのか?

江戸の落合家は、左平次の生前に独立していますが、紀州家とは仲がよくないとの記載があります。旗が紀州家に継がれたのも、江戸の落合家が左平次となんらかの仲たがいをしていたからではないかと推察できます。
おそらく落合家の来歴についても江戸落合家の初代(左平次の子)はあまり伝えなかったのではないでしょうか。このことは花倉の戦いを武田方とはっきり書いてないことからも推察されます。寛政譜では、今川家の家臣を中心に今川に仕えたのちに、武田に仕え、その後徳川につとめた旨が平然と書いてあるものが多く、花倉の戦いの記載を控える理由はありません。

落合左平次は遠州出身なのか?

寛政譜では遠州出身となっており、現在もっとも落合姓が多いのが菊川市であること、松下常慶の正妻が「落合蔵人」で落合姓であることから、一見これは妥当そうに見えます。しかし、高天神城記には徳川方の「落合」姓の武将はでてきておらず、高天神城の攻防前に落合氏がこの近辺にいた気配はありません。花倉の戦いに参加できる勢力が徳川方に寝返ったとして、長篠の戦い前の高天神城の攻防に現れないのは不自然です。武田方であることを考えると、遠州出身ではないのではないかと思われます。

「戦国大名と国衆」にみる武田氏家臣 落合氏

武田家臣なら武田の本をみれば、ということで、平山優氏の「戦国大名と国衆」をみてみると、当然のように落合氏の記載があります。35ページの地図によれば、落合氏の領地は栗田氏の若干北側、葛山城です。184ページによると弘治3年(1557年)この上杉方であった落合氏の葛山城は武田方に落とされたが、落合遠江守は武田側について所領を安堵されたと記載されています。

花倉城攻めに参陣した落合氏は、この落合遠州守の一族である可能性の方が高いように思います。 この「遠江守」が遠州出身との誤解を招いたのではないでしょうか。滅亡した落合氏が牢人として武田に仕えたり遠州に来た可能性も0ではありませんが、兄弟で記載されており一族で参陣したように見えます。


長篠の戦いの前の情勢
奥平氏は徳川方に寝返ったものの、遠州では前年に高天神城を落とした武田の方が優勢であったと思われます。落合氏が奥平氏の傘下でないのは明らかなので、そもそも長篠の前に徳川方につくような機会はそもそもなかったのではないかと思います。

高天神城攻めの戦功の不合理
高天神城攻めの戦功は、長篠の戦いの翌年になっていますが、そもそもこの年は家康は横須賀城を築いて反攻にとりかかったばかりです。もちろん城攻め関係の小競り合いはありますが、家康に従軍していたのであれば、その後の城攻め関係の戦功がないのは不自然です。この戦功は、武田方だったときのものではないでしょうか。

信濃先方衆としての落合氏
高天神城の攻防では、上記の記載を除けばどちらの戦功についても落合氏の名前はありません。落城時の首リストにも名前がない。では一体いつ菊川市近辺に現れたのか?
以前の記事で書いたように、同様に忽然と現れた国衆が栗田氏です。落合氏の領地は栗田氏の北方でさらに上杉との国境付近ですので、落合氏もまさに信濃先方衆です。
となれば、栗田氏と同様、落合氏も遠州小笠原氏やその配下と交代で遠州に配備されたと推測できます。現在の長野県に落合氏が少ないこともこれを補強する材料です。

徳川氏への帰属時期
落合氏の多い菊川市本所付近は、栗田氏のいた内田よりも高天神城から遠く、諏訪原城よりですので、諏訪原城落城の影響をもっと強く受けていたでしょう。結果として、栗田氏よりも早く徳川方についたのではないでしょうか。

以上あまり根拠は強くないのですが、鳥居強右衛門の覚悟に感動した落合左平次が長篠の戦い時点で武田方だったことは十分考えられるように思います。