孤独のグルメを見てて思った事 | delo camping now !!

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さて、先日、なにげなく、孤独のグルメを見ていたら、面白い(funnyの方)場面があった。


とあるアプリ会社のCEOがその回のクライアントの設定で、電話越しにビジネス用語のカタカナ言葉を連発し、面談待ちの五郎が「最近こういう人多いよな...」と、辟易してしまうという場面だ。


電話越しに、まくし立てる。


イシューを明らかにして!

KGIにアジャスト出来てない!

KPIを立ててるんですか!?

スキームをリバイスしてサマって!

そこバッファを持たしといて、ASAP でね、


などなど笑


なんか、その役のCEOが、やたらわざとらしくこれらを連呼していて、単純に笑ってしまうのだが、まぁでもはっきり言ってこれくらいのワード自体は、会社や業界で多少のバラつきはあれど、どこの会社でも流通している言葉だろうから、逆にボケが効いてないというか、フリが効いてないというか、これで辟易してしまう五郎の様が逆に滑稽に思えてしまった。(まぁ彼はいつも色んな意味でピュアだが)


なるほど、当然こういう言葉が鼻につく、アレルギーがあるという人は、一定数いるだろう。ビジネスコミュニティや職掌の性質の違いから、互いにある種の異化が生まれ、いい知れぬ嫌悪を感じてしまうのが、その主要因なのかもしれない。


これみよがしに無駄に連呼するのは論外だけど、ビジネスシーンでこんな言葉を使ってる人の恐らくたいていは、実際には、イキりたいのでもなんでもなくて、その言葉でないと出せないニュアンスや言葉の価値を認めているからで、普通に無意識に使っているというのが実情だと思う。もちろん一つ一つの意味や成り立ちの理解が双方にある事が前提だが。



ただ、言葉は貨幣と似ていて、貨幣は市場で価値を認められて流通しないと交換は起きないし、言葉も意味が広く理解され、流通させることが出来ない限り、情報の交換は起きないはずだ。


故に、その言葉の背景や文脈が明らかに共有されてない地域やコミュニティで、殊更にその言葉を発しても、全く真意が伝わらないのは確かで、言葉はただ宙に浮いてしまい、コミュニケーションが殆ど成立しない。歴史を振り返っても、言葉がうまく通じないと、時に人は争うものだし、カタカナ言葉への嫌悪というのも、根底では、よくわからない、理解出来ない、ということから来る苛立ちに近い、ある種の異物感なのかもしれない。





例えば、ノウキンという言葉がある。


子どもにこの言葉を使われた時、僕は一瞬何のことか分からず、ハッとなってしまった。後に分かったが、それは「脳筋」だということだったw



でも、自分のテリトリーにはない理解できない言葉をいきなり使われた瞬間、その場に異化が起き、途端に自分が内心少し戸惑ってしまっているのがわかった。子どもが独自にコミュニティで得た言葉を使って、家族に意思疎通してくるのが、この場合は、ある種新鮮でさえあった。


新しい言葉というのは、最初はその言葉の持つ文脈を理解しているコミュニティでしか通じないが、ユーティリティのある有望な言葉は、徐々に言葉自体が市民権を得ていき、通貨の様に自ずと広く流通し始める。例えばノウキンのようなネットスラングでも、市民権を得て使われ出す時、その言葉のもつニュアンスや意味性が理解され、その利便性が認められたという事なのだろう。



そういう意味で、言葉が持つ流通性は面白い。



このように考えると、ビジネスにおける、へんてこりんに思えるカタカナ用語も、地域限定の地域通貨みたいなもので、特定の域内では、その価値が確かに認められていて、機能的に価値交換を生む。(本質的な議論の齟齬は別として)


しかし、それを理解する文脈を持たない(または、持つ必要がない)属性や、そもそもアレルギーを持ち、絶対にそのような言葉に適応などしたくないと思っている人たちの前で、この「地域通貨」をまくし立てるのは、その地域で使えない通貨を無駄に繰り出し続けて、何も交換出来ません、と拒否され続けるようなものだろう。


故に、真の意味で、他者と話す時、やはりまず大事なのは、原則的にその国で使える通貨をまず確認したり、推測したりする感度を持つ事だと改めて思う。知らない国のことは、まず知ろうとする下調べや配慮が必要だし、双方が、自分だけの通貨に依拠しない事が何より大事だと考える。