お世話になっております。
護身術glasswolf、硝子狼流合気柔術代表、ケイゴです。
今回は「構え」についてのお話。
硝子狼流では、基本的にあまり構えに拘らない。
護身術的にも実戦武術としても理由がある
護身術として構えないのはまあ分かりやすい。
相手を興奮させないためと、第三者からみた自分の立場をキチンと「被害者」と認識してもらうため。
では何故武術としても構えないのか。
私が下敷きにしている考えの一つに、
新撰組三番隊組長として幕末を、
警視庁抜刀隊隊員として西南戦争を切り抜けた斎藤一のこういう言葉がある。
「まあ真剣での斬り合いというものは、相手がこう来たらこうとかそんなふうに出来るものではなく夢中で斬り合うのです」
そういう事なのだが
あまりにも「構えない」とか「型通りではない」と言うと「武術」とは言わなくなってしまうし、何より稽古の仕方も限られてしまうので、効果的な稽古のため、
硝子狼流では「無構」という構えを考案、制定している。
腕を上げてあからさまなファイティングポーズは取らないが
全身で即座に対応、反撃、エスケープ出来る体制である。
言葉にすれば簡単なのだが、習いに来ていただいている生徒さんは知っている通り、細かいポイント、着眼点はかなりある。
あと、無構以外にも
武器術、対武器術、特殊護身、状況によっては臨機応変に構えらしい構えをとるようなこともあります。
「対人型稽古」を大事にしながらも、型だけには囚われず頭もカラダも柔らかく。それが硝子狼流合気柔術。
さて、近代格闘技と古武術の構えについて、私の思うところ。
大体の現代の格闘技では、利き手利き足が後ろ、つまり左側が前に出る。
左で距離を図る、牽制のジャブ
右手で必殺のストレート。
「競技格闘技」での使い方はこうであるはず。
しかし、「武術としての現代格闘技」としては多分こうだと私が解釈している事がある
利き手(後)が武器であり、
左手(前)を盾にしている。
盾にするとは最悪、左手なら斬られる、突かれるして使用不能になっても「武器である右手」はまだ使え戦闘能力は維持出来る。
最悪、切り落とされたとしても、後々の日常生活において利き手である右手を失うほどの障害にはならない。(重症には違いないが)
だが、決定的に言える事が一つ。
これは「医療」が発達している現代だから通用する考え方である。
凶器(刀剣)が身近に存在していたのに医療がまだ進歩していなかったかの時代。
普通に考えて、手足どれか一つでも斬り落とされれば、当時の医療、応急処置術では完璧な止血・治療等を施す事は難しく、ほとんど百%助からない。
斬り落とされるどころか、体の何処を斬られても致命傷になり、命を落とす。
だから左手(自分の体)を盾にするという考え方は当然なく、武器を持つ右手が前になる。
これは武器で体を守るとか、それだけではない。
何処をどう斬られても死ぬなら、それを防ぐためには、
「斬られる前に素早く」「自分の最高の一撃を」「相手の急所を精密的確に狙い」「自分が一番上手く使える利き腕」で叩き込む、もしくは斬り込む事が肝要だからである。
それがおそらく古の武術家の闘い方。
だが結局、
オーソドックス(左手前)も
サウスポー(右手前)もどちらも一長一短あり、どちらが正解だとかはないので硝子狼流、glasswolfでは「どういう自分になりたいのか」という各人の判断と好みに委ねている。
かくいう私は、生粋の右利きだが23才の頃から、
「違う自分、武術家としての自分にになりたい」
「私も麗しい世界の人間になりたい」
という自意識を満たすため、それまで右手で行っていた食事を完全に左で行うように切り替えた。
戦闘においてもサウスポーの稽古を積むようにしている。
(ちなみに、
構えに関係なく「利き腕自体を代える事」は成人してから始めると脳にはあまりいい影響ではないようなので人にはオススメはしない。)
皆さんの中にも、「色んな自分」がいると思う。
「好きな自分」
「嫌いな自分」
「自分はああなりたい」
守りたかった、自分。
あの時、守れなかった自分
許さなかった自分。
赦してあげたかった自分
何も感じない空虚な自分
人の涙は綺麗に見えたのに、自分の涙は汚く見えた自分。
愛せない自分を抱えた人達に、
硝子狼流合気柔術、glasswolfが出来ること。
ガラスのオオカミは日々考えます。
貴方が自分の腕で構えて自分を守るだけじゃなく。
貴方自身が
誰かを守る「構え」になれば良い。
毎週土曜日夜8時、新宿にて護身術教室開講中。
glasswolfとは、ガラスのように綺麗なこころを持つ狼。
アドレス
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「対PTSD」護身術。