京都では市長選が盛り上がりのピークを迎えています。
投票日は今週の日曜日
有権者の人はぜひ一票をいれにいってほしいです。
わたしの友人には納税していて地元京都で消費活動をしていても、投票できない人が大勢います。京都市に暮らしていても、投票できない人がいる。
これについてここでは広げて書くつもりはないけれど、一票を持っている人はそれを捨てずに投じてほしいなと思います。
20代前半から中盤にかけてわたしは自分の意見をわりと強めに言葉にしてきました。
でもなんかそれが
かっこわりぃかも
最近はそれがベースにあってとても保守的でした。
が、
つい先日、愛してやまなかったラッキーが
このままかっこつけて過ごすのか?
かっこわるくても想いを表現していくのか?
なぜかそんなことが頭に浮かんできて
っていうか政治について熱く語ることって
かっこわるくねーし!って
言葉ってどうしても正確に想いを伝えきれなかったり、相手との言語の定義の差とか出てきて難しいところあると思う
でもわたし、やっぱり言葉の人なんです。
今回の市長選でもともと無所属の福山さんを応援したいと思ったのは、近所の乾物屋すみれやの春山さんが声をかけてくれたことが大きかったです。
オーガニックはとても勘違いされやすい
すごく高い、健康志向、自分たちだけのためにそれを選らんいでる。
そんな風に思われがちです。
でもわたしが本当に望んでいるオーガニックは一部の人のための趣味趣向じゃない。
それに自然栽培や有機栽培じゃない農法の人たちを排除したり軽視したいわけでもない。
全部があるから今のバランスが保たれているのも事実。
それでも地球に住むみんな、それは人も動物も、森や海や川などの自然もみんなにとって〝マル〟ってなる方法を考えたいんです。自分の知らないところで関わる途中の人や環境がどっかで泣いてたり、苦しんだりしてるのは嫌なんです。
介在する命がひとつずつちゃんと尊重される温かな和の中にみんなが収まる。私の中でのオーガニックという言葉が本当に表現したいことはそういうことなんです。
福山さんが京都市長になってくれれば、もしかしたらそれを市という単位で実現できるかもしれない!そう思いました。
わたしにとって福山さんを応援する理由はそれひとつで十分。
百万遍の街頭演説で
〝僕は門川さんが全部間違ってるとは思いません。ええところは引き継ぐし、あかんところは変えていく。〟と福山さん
でも他の候補者を罵ったり全否定することから本当に良い政策って生まれるんだろうか。
でもたぶんこれって選挙の戦い方なんですよね。
これみて自分もわがふり直そうって思ったのは、
自分も自民党はNOっていう瞬発的な拒否反応というか、感覚しっかりもっちゃってるってところ。結局、自分も同じかもと思いました。
昔はずっとカテゴリーやラベルだけで物事を判断することに抵抗があって
それこそ中国嫌い!インド無理!とか言ってくる人に
インド行って直接インド人と話して喧嘩してから初めてそれ言え!くらいに強めに思っていた私
今はだいぶ自分の考え方が丸くなってカテゴリー別けすることの意味とか、利便性とかわかるし、必要があって一塊になるんですよね。
国民性や県民性、党の色など組織や団体としての性格や性質も十分にあると理解した、その上で言いたい
やっぱり最後は党とか組織とかそういう外側のものを剥いで、その人自身がどんな人かってことが大事。
特に今回の市長選でそれを強く感じました。
だから自民党が推薦している門川さんってのもひとつの判断材料ではあるけども、市長候補者としての門川さん、福山さん、村山さんってどんな人なのか?
それが一番大事って思ったんですよね。
戦略だから
そういう広告もありなのかもしれない
いち市民として自由に発言する権利だってある
でもやっぱり一部を排除して自分を上に立たせようとするリーダーはわたしは勘弁かな。
福山さんの応援チームはあえてあの強烈な広告になぞるようにして広告を出しました。
時代なのかもしれない
野菜見てても、菌の話しても、地域活性も、人間関係もいろんなところでどうしたって多様性がカギになっていると思う。
いろいろな人がいてひとつの世界。
うちの父ちゃんが昔〝あべっちも含めてワンラブ〟と言ったのを思い出しました。
きれいごとに聞こえるかもしれませんけど、やっぱり全部があってひとつなんですよね。
排除からは始まらないとわたしは思ってます。良いも悪いも、陰も陽も、ひとつになったところから建設的に良い歯車が動き出すんじゃないだろうか。
ボーダーで区切ったり箱で仕切ったりじゃなくて、京都市民とそこに関わってくれる周りのみんなで京都の未来を描く新しい第一歩見てみたい。
共産NOって言ってる人のことも抱きしめてあげられるような世界って無理なんだろうか。 いや、まだできるんじゃないかな。
選挙がゴールじゃない。
どうなっても市民の毎日は続いていく。こうやって語りたくなる日がやってきたこの京都市長選に心から感謝しています。
投票日は今週の日曜日
有権者の人はぜひ一票をいれにいってほしいです。
わたしの友人には納税していて地元京都で消費活動をしていても、投票できない人が大勢います。京都市に暮らしていても、投票できない人がいる。
これについてここでは広げて書くつもりはないけれど、一票を持っている人はそれを捨てずに投じてほしいなと思います。
20代前半から中盤にかけてわたしは自分の意見をわりと強めに言葉にしてきました。
でもなんかそれが
かっこわりぃかも
と思っちゃったシーズンが20代後半あたりからはじまり
実家戻ってからは商売してるのもあり中立な立場を保ちたいという気持ちが芽生え
政治に関することはあんまり発言しないのが得策かな...と
実家戻ってからは商売してるのもあり中立な立場を保ちたいという気持ちが芽生え
政治に関することはあんまり発言しないのが得策かな...と
最近はそれがベースにあってとても保守的でした。
が、
つい先日、愛してやまなかったラッキーが
19歳目前で永眠したときに
このままかっこつけて過ごすのか?
かっこわるくても想いを表現していくのか?
なぜかそんなことが頭に浮かんできて
自分は後者を選びました。
っていうか政治について熱く語ることって
かっこわるくねーし!って
ここにきて改めて思っております。
言葉ってどうしても正確に想いを伝えきれなかったり、相手との言語の定義の差とか出てきて難しいところあると思う
でもわたし、やっぱり言葉の人なんです。
綴らずにはいられず...
今回の市長選でもともと無所属の福山さんを応援したいと思ったのは、近所の乾物屋すみれやの春山さんが声をかけてくれたことが大きかったです。
〝京都市アグロエコロジー宣言〟に賛同する形で福山さん推しのエンターキーを押しました。
今、扱っているお野菜が大好きだから。
自分たちが応援している農家さんのお野菜を後押しすることになり、地元の子供たちがそのお野菜で給食を食べられる日が来るかもしれないという話に、心が躍り希望の光が見えました。
オーガニックはとても勘違いされやすい
すごく高い、健康志向、自分たちだけのためにそれを選らんいでる。
そんな風に思われがちです。
でもわたしが本当に望んでいるオーガニックは一部の人のための趣味趣向じゃない。
それに自然栽培や有機栽培じゃない農法の人たちを排除したり軽視したいわけでもない。
全部があるから今のバランスが保たれているのも事実。
それでも地球に住むみんな、それは人も動物も、森や海や川などの自然もみんなにとって〝マル〟ってなる方法を考えたいんです。自分の知らないところで関わる途中の人や環境がどっかで泣いてたり、苦しんだりしてるのは嫌なんです。
簡単じゃないかもしれないけどそれを考え続けていきたい。今だけ良ければいいという短期的な消費の世界でなく、未来にも無理なく続く、持続できる方法って何かなと考えた時に私は本当の意味でのオーガニックがあると思っています。
言葉の定義はすごく曖昧で、オーガニックの中にも微細な差があって、それぞれのスタイルがあります。
細かいニュアンスや哲学もとても大事だと思うけれど、敢えてここではひっくるめてオーガニックと表現しています。
介在する命がひとつずつちゃんと尊重される温かな和の中にみんなが収まる。私の中でのオーガニックという言葉が本当に表現したいことはそういうことなんです。
福山さんが京都市長になってくれれば、もしかしたらそれを市という単位で実現できるかもしれない!そう思いました。
お店でひとりひとり広げていくことはとても大事。
でも市政が動いて取り組んでくれたら、それはもう点と点でやっていたことが大きな面となる。面になってはじめてやれることがある。その一歩目がもしかしたら子供たちに向けてになるかと思うと本当に嬉しいし、何かが変わっていくきっかけになるって思える。
食について真剣に考えてくれている。
わたしにとって福山さんを応援する理由はそれひとつで十分。
でも知れば知るほど市民を、小さな商店を、子供たちを、福祉や介護を、そして京都という町を大切に想っていることが伝わってくる福山さんの言葉。
百万遍の街頭演説で
〝僕は門川さんが全部間違ってるとは思いません。ええところは引き継ぐし、あかんところは変えていく。〟と福山さん
そのスタンスが好きだと思えたし至極まっとうな意見だと思った。
選挙は勝ち負けのある闘い。
でも他の候補者を罵ったり全否定することから本当に良い政策って生まれるんだろうか。
冷静に今どこがうまくいってないのかを考えて、少しずつ変えてくれたらいいんだから
すごく納得できる言葉だった。
その翌日、日曜日の朝刊に出た広告が物議をかもし京都の話題をかっさらいました。
政策なしでヘイトで勝負してくるその姿勢。
でもたぶんこれって選挙の戦い方なんですよね。
福山さんは無所属
でも共産党が応援してくれている。
印象で誘導する作戦なんですよね。
この広告は
単純に
本当に
心地が良くない...
ただ
ただ
これみて自分もわがふり直そうって思ったのは、
自分も自民党はNOっていう瞬発的な拒否反応というか、感覚しっかりもっちゃってるってところ。結局、自分も同じかもと思いました。
昔はずっとカテゴリーやラベルだけで物事を判断することに抵抗があって
それこそ中国嫌い!インド無理!とか言ってくる人に
インド行って直接インド人と話して喧嘩してから初めてそれ言え!くらいに強めに思っていた私
インド人とガタガタ道の長距離バスの中で〝ふー!いぇーい!〟って一緒になってジェットコースター気分を楽しんだときインド人最高!って思った
でも、町でヨーグルト入ったサモサみたいの買った時に明からに現地価格の10倍とられたときは本気で文句言って、インド人なんやねんっ!ってなったし
インド人って何億人もいる人たちをひとつにくくれねーよってなった。そりょそーなんですよ。
だから昔は本当に国名や組織名ごと悪口言ってくるやつが大嫌いだった(笑)
今はだいぶ自分の考え方が丸くなってカテゴリー別けすることの意味とか、利便性とかわかるし、必要があって一塊になるんですよね。
国民性や県民性、党の色など組織や団体としての性格や性質も十分にあると理解した、その上で言いたい
やっぱり最後は党とか組織とかそういう外側のものを剥いで、その人自身がどんな人かってことが大事。
特に今回の市長選でそれを強く感じました。
だから自民党が推薦している門川さんってのもひとつの判断材料ではあるけども、市長候補者としての門川さん、福山さん、村山さんってどんな人なのか?
それが一番大事って思ったんですよね。
戦略だから
そういう広告もありなのかもしれない
いち市民として自由に発言する権利だってある
でもやっぱり一部を排除して自分を上に立たせようとするリーダーはわたしは勘弁かな。
数が少ない方の人たちを排除しそうな発想の人に、自分の意見を聞いてもらえるような気がしないから。
小さな商店で自営業してたら本当に切実なんです。おっきな仕事持ってきてくれる人も確かに大事かもしれないけど、小さい規模でやってるわたしたちの毎日の暮らしって本当に小さなことの毎日の積み重ねと連続だから。
福山さんの応援チームはあえてあの強烈な広告になぞるようにして広告を出しました。
時代なのかもしれない
野菜見てても、菌の話しても、地域活性も、人間関係もいろんなところでどうしたって多様性がカギになっていると思う。
単一化してたら弱くなって続かない。
いろいろな人がいてひとつの世界。
自民も共産も無所属も政治に興味持てない人も全部含めて京都市っていうひとつの世界。
うちの父ちゃんが昔〝あべっちも含めてワンラブ〟と言ったのを思い出しました。
きれいごとに聞こえるかもしれませんけど、やっぱり全部があってひとつなんですよね。
排除からは始まらないとわたしは思ってます。良いも悪いも、陰も陽も、ひとつになったところから建設的に良い歯車が動き出すんじゃないだろうか。
だからみんなに声を傾けてくれそうな、この人に京都市のこれからを託したい。
いや、託すんじゃなくて、この人となら一緒になって良い京都を作る政治を市民としてやっていきたい。
ひとつのあったかい和にみんなが入ることが夢だから
ひとつのあったかい和にみんなが入ることが夢だから
ボーダーで区切ったり箱で仕切ったりじゃなくて、京都市民とそこに関わってくれる周りのみんなで京都の未来を描く新しい第一歩見てみたい。
共産NOって言ってる人のことも抱きしめてあげられるような世界って無理なんだろうか。 いや、まだできるんじゃないかな。
選挙がゴールじゃない。
どうなっても市民の毎日は続いていく。こうやって語りたくなる日がやってきたこの京都市長選に心から感謝しています。
誰が市長になっても、想いは変わらない。でも暮らしは変わる可能性がある。だから投票します!