かぐや姫の物語。 | 江戸の杓子丸

江戸の杓子丸

化け猫 杓子丸の大江戸見廻覚書

 

「かぐや姫の物語」

 

137分 日  2013年

 

監督 高畑勲

 

製作 西村義明
原作 「竹取物語」
脚本 高畑勲 坂口理子
音楽 久石譲
撮影 中村圭介
出演 朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子
    田畑智子 高畑淳子 立川志の輔 ほか

 

 

【完全ネタバレ】

 

 

せんぐり いのちが よみがえる。☆☆☆★★

 

 

〔ストーリー〕
  今は昔、竹取の翁が見つけた光り輝く竹の中からかわいらしい女の子が現れ、翁は媼と共に大切に育てることに。

 女の子は瞬く間に美しい娘に成長しかぐや姫と名付けられ、うわさを聞き付けた男たちが求婚してくるようになる。彼らに無理難題を突き付け次々と振ったかぐや姫は、やがて月を見ては物思いにふけるようになり・・・。

 

 

 

 

高畑勲脚本・監督作品。
脚本は坂口理子との共著。

 

実に、8年の歳月と50億円を超える製作費を投じ、作り上げた作品だそうだ。
すごいな、8年・・・。

 

高畑監督がやりたかった事はわかったけど、なぜ「竹取物語」をやろうと思ったのか、作品を観ても結局僕にはわからなかった。


ただ、今後日本人は「竹取物語」を読まなくても、このアニメ作品を観れば大体把握することができるようになった(笑)

 

高畑監督による解釈というより原作にほぼ忠実な作品なんだろうか。
物語としてはとても不親切なところがたくさんあるので、そう思った。


ウィキなどで「竹取物語」を読んでみて、なんとなくやっと物語を理解できたかな。

 

市川崑監督の「竹取物語(1987)」では、かぐや姫は大伴大納言(おおとものだいなごん)と恋に落ちるけど、この高畑監督作品では、山で育った捨丸(すてまる)と心を通わせる。

 

この辺がこの作品の意図をわかりやすく伝えていると思う。

 

 

話題になった描写技法は、諸刃だなと感じた。


まるで水彩画の画集を見せられているような画面だけど、見せたいものだけを見せることができると同時に迫ってくるものも正直少ない。

 

昨今の3DCGアニメへのアンチテーゼなのだろうけど、やっぱり僕は夕焼けに染まる竹林、紅葉の山のショット、かぐや姫が満開の桜の下で、踊るように駆け回るシーンは実写や3DCGアニメの方がより美しく魅せることができるんじゃないかと感じた。

 

一方、つぼみが花開く様子やてんとう虫が飛び立つ瞬間のショットはかえってアニメの方が抽象的でいいのかも知れないな。

 

こういった鳥虫けもの、草木花のショットを全編にちりばめ、かぐや姫が見ている春夏秋冬のごとく繰り返す命の営みを印象づける。

 

 

アニメらしい表現はさすが、いいなぁ。

 

竹林でかぐや姫を拾った翁(おきな)は家に持ち帰り、女房の媼(おうな)に見せる。

 

媼の手の平で眠っていたかぐや姫は、大きなあくびをするとまるでカエルがそこから逃れようとするかのようにピョンピョンと跳ねながら大きくなり、やがて赤子に変化してしまう。

 

また、「龍の首の珠」を約束した大伴大納言(おおとものだいなごん)は死の恐怖に触れ、うごめく雨雲や渦巻く荒波に龍を見る。

 

この雨雲が龍になっていく描写がすごくかっこいい。

 


そして、故郷の山に帰ってきたかぐや姫が、幼なじみの捨丸(すてまる)と再会するシークエンスがすごくいい。

 

自身の運命と捨丸への想いを打ち明けたかぐや姫に対し、捨丸は「一緒に逃げよう」と返す。

 

その言葉にかぐや姫は愛される喜びでいっぱいになり、重い装束を脱ぎ単衣(ひとえぎぬ)姿になると側転をしたり野を跳ね回る。

 

まるで「アルプスの少女ハイジ(1974)」で、アルムの山を転がるように駆け出したハイジのように。

 

このシーンを観た時、「そういう事か」とやっとわかった。

 

クララの住む都会へ行ったハイジは、やがて元気を失い病気のようになる。

 

同じように、穢土(地球)に放たれながら、父である翁が望む上流貴族の生活をすることになったことで、かぐや姫はまるで死んだようになってしまう。

 

しかし、故郷の山へ戻り捨丸に再会したことで、かぐや姫は再び解き放たれるのだった。


かぐや姫が屋敷の中でぴょんぴょん跳ね、ドタバタと走り回るシーンは心を開放させられる。
それこそ「ハイジ」を見ているように。

 

やっぱりアニメは人物や画面が動いていると楽しくなる。

 

 

また、二人が交わる飛翔のシーンがホント素晴らしいと思った。

 

「スーパーマン(1978)」でスーパーマンがヒロインと共に空を飛ぶロマンチックなシーンがあって、あのシーンが大好きなんだけど、思い出した。

 

結ばれないからこそ「ロミオとジュリエット」のような悲哀もあるし。

 

飛翔しながらその両手を広げ捨丸を迎え入れるかぐや姫は、まるで観音さまのような、母のような・・・。

 

けれど、夢のような時間も月光がかぐや姫を残酷な現実に引き戻す。

 


ごろごろ転がっていた赤子のかぐや姫が、はいはいを始め歩き出す一連の演出や、お椀を作る工程をいちいち描き見せるシーンは、人の営みに美しさを見出す高畑監督らしい。

 

 

そして、いよいよ月から迎えがやってくる八月の十五夜。

 

月光を背に能天気な音楽を奏でながら、お釈迦さまのような月の王らが月から下りてくる。

このシークエンスが全て。

 

すごい。強烈。

 

全編を通してそうだけど、やっぱり久石譲の音楽の威力と魅力がこのシークエンスでもほとばしる。

 

かぐや姫を守らんと武装した武士たちの放った矢は花となり、人々は死んだように眠りこむ。

 

そして、かぐや姫はからくり人形のようになって、月の王の元へすべり行く。

両手を前に突き出した格好はキョンシーみたい、象徴的で面白いと思った。

 

キョンシーは死体であり、ゾンビみたいなもんだろうから。

高畑監督がキョンシーを好きとは思えないけど(笑)

 

翁と媼が「私たちも一緒に連れて行って」とかぐや姫を抱きしめる。

 

娘を奪われる身を切るような悲しみと涙の二人をよそに、月の王たちは「知ったこっちゃねぇ」と再び能天気な音楽と共に、かぐや姫を連れ去っていく。

 

穢土であるはずの地球で命や愛の美しさと尊さを知ったかぐや姫だったが、天の羽衣を着せられ記憶を失ってしまう。

 

 

かぐや姫が地球に落されたのは、何のためなのか。

 

永久の命や美しさが約束された月の世界では、死ぬことはできない。
だから、生きることを捨てたかぐや姫は罰として地球に落とされてしまったのか。

 

月へ還る途中、記憶を失ったはずのかぐや姫が背後の地球を見て、涙する。

かぐや姫は、穢土で人間の愛や限りある命や穢れた欲望に尊さと絶望を見た。

 

かぐや姫は実際は輪廻を超えた存在だけれど、地球でこそ再生されたのかな。

不変の美しさや永遠の命をもつ月は、やはり地球から見てこそ美しいのだし。

 


そして、ラストショットは満月に赤子姿のかぐや姫が重なった画だった。
どういう意味なんだろう。

 

満月がはじまりでやがて欠けていく(死んでいく)。


「君(観客)は今どこだい?大切に生きなさい」と言われている感じでちょっとドキッとなる。

 

 

実際、かぐや姫にかかわった男たちは、みんな不幸になった(笑)
自身の穢れた欲望によってだけれども。

 

捨丸は本当に、御門や5人の公達らのように欲深くはないのだろうか。

 

虫だって花だって未完成で醜くて、貪欲で身勝手なんじゃないだろうか。
毎日当たり前に殺し合いをしているのだから。

 

「竹取物語」はよくわからないところが多い。
どう解釈すればいいのかわからない。

 

ただ、生死や自然への眼差しは今も昔も変わらないんだな、同じものを見ているんだな、と
思うと不思議な気持ちになる。

 

 

↑この女童(めのわらわ)のキャラクターがたまらん。


このキャラクターがいるといないでは、相当違うと思う。

物語の流れそのものが結構ぐにゃぐにゃなので、観ていて随分助けられた。

 

鳥かごの鳥を逃すベタなシーンとか、う~ん、どうなんだろというシーンも結構あるんだよね(笑)


137分か、観ていて正直ややつらいところもあった。

 

 

しかし、8年をかけて作り上げるというのは、本当にすごい事だと思う。

 

日本の野郎は、近年運よく生きて寿命が80年くらいか。

その10分の1を費やすってすごい事だし、そういうアイディアに出会えるのはホント幸運な事なんだと思う。