アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑 -3/X-
アテルイとモレが降伏する前後の田村麻呂の足跡を史実に求めてみよう。
792年 征東副使になる
793年 第三次蝦夷討伐のため蝦夷へと向かい、蝦夷軍と交戦
この時点で、アテルイとモレは、胆沢と志波から一掃されてしまった。
802年の降伏までの約9年の期間、どこで過ごしたのだろう。
降伏時に500名の兵とあることから、その家族も含めて相当の人数と馬が住まえる地が必要だ。
その地の長が、当然親アテルイ派と考えると、志波(現盛岡市)から北か西か・・・。
イカコ(伊加古)を頼っていたのかもしれない。
796年 1月25日 征夷大将軍
797年 11月5日 征夷大将軍 どっちが正しいのか、どうでもいいが
この頃に、気になる記録がある。
800年頃 田村麻呂の次男、坂上廣野麿が杭全庄(摂津国住吉郡杭全庄、現在の大阪府大阪市東住吉区)を賜り(笑)、この地を領有している点だ。
次男へというより、田村麻呂への蝦夷討伐に対する恩賞の意味が強かったのだろう。
摂津は、河内の極、隣りの国である。
当時、水が引いて平らになった土地で、開墾前提の土地は、まるで蝦夷の住まう地のようだったろう。
これが偶然なのか、田村麻呂が望んでのことなのか・・・。
801年 2月14日 第三次蝦夷討伐 4万の軍勢5人の軍監32人の軍曹を率いて平安京から出征
現在より冬は厳しかったはずの2月に、4万人が移動する・・・、と考えただけでもたいへんだ。
飯も食わなければならず、ほんとうなのだろうか。
とはいえ、降伏の決断は、もうそこままでやって来ていた。
802年 4月15日 蝦夷の指導者・阿弖流為と盤具公母礼(モレ)が500人の兵を率い降伏
7月10日に平安京近くまで来た
9月13日に河内国にて刑を執行
4月に降伏、7月に都そばまで来て、9月に処刑と、足早に時は過ぎ行く。
4万の兵も帰還したのだろうか。
500人の兵は、胆沢に残されたのだろうか。
なぜ引き連れての降伏だったのかも少々疑問だ。
803年 3月6日 造志波城使として辞見(天皇と対面する儀礼)
804年 征夷大将軍に任命される
一旦ここで、留め置こう。
運命の802年、7月に平城京のそばまで来て留め置かれているのはなぜか。
都に入れたくなかった理由が田村麻呂側の作戦だったのか、朝廷側の理由だったのか。
田村麻呂の用意周到な性能からして、少なくとも、身形は整えられていただろう。
いずれにしても田村麻呂同席で、朝廷の役人が視察し尋問などしたと思われる。
その時、想いの他、大和の人と容姿もさほど変わらず、話してみて、戸惑うようなものだった。
言葉を借りれば「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた梟帥」ではない事に驚いたことだろう。
この状況は、後の安倍貞任の弟、宗任の逸話へと想いを巡させたほうがイメージしやすい。
降服し源義家に都へ連行された宗任。
奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えた。
朝廷をたてて、死刑を認めた天皇ではあったが、絶大の信頼を置く田村麻呂の意見を無視する訳がない。
天皇と裏で交渉をして、助命の策の内諾を得ていたと推察している。
都に入れなかったのは、穢を嫌ってだという説もある。
死刑の指示のなかに、場所の指定があったのだとすると、その説は否定される。
河内国へ連行するには、普通に考えると都を通る事になる。
だとすれば、その場で処刑せず、なんらかの目的をもって、意識的に、河内国に移送したと推察する方が自然だ。
意識的に河内に移送するなら、都を通る際、馬に乗せ、後ろ手に縄のような見せしめ的な動きをしただろうが、そのような記録はない。
死刑囚を、何の拘束もなく、わざわざ都を馬に乗って粛々と河内に向った・・・などとは考え難い。
おそらくは普通に兵の移動のような隊列で、民衆は、特に違和感なく観ていられるような形だったのだろう。
この時、個人的な妄想だが、まだ今のような姿ではなかったろうが、達谷窟毘沙門堂を真似た清水寺の前を通ったと想いたい。
そおこには坂上田村麻呂が見送りに立っていた・・・と信じたいのだが。
この時、河内国への移送は、誰が担当しただろうか・・・。
この辺で、今回は、終わりにしたい。
つづく